【連載】明日も一日きみを見てる 第7回 | 角田光代
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【連載】明日も一日きみを見てる 第7回 | 角田光代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!
毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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突然勃発した猫たちのけんかにまぎれ、姿を消してしまったトト。
角田さんは生きた心地がしなくなって……。


第7回 鉢合わせと最大事件 (後編)


 庭で鉢合わせをして、あわやけんか勃発となり、止めに入った私の横を、ものすごい速度で走り抜けていったトト。サバトラ、茶トラ、灰色の梵字模様と、まるで流線のごとく走り去った猫たちを私は一瞬で見失い、とぼとぼと家に帰ってきた……までが前回

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 生きものの気配のまったくしない家で、私はひとりぼそぼそとトーストを食べるも、心臓がばくばくしてまったく味がしない。
 あんなに猫らしい行動をとったトトを、この十年というもの、ただの一度も私は見たことがない。トトは軽々とジャンプもするしダッシュもするけれど、テーブルで寝返りを打ってそのまま落ちるところも、ダッシュをしてうまくコーナリングできずに壁に激突するところも見ている。どちらかというとトトはどんくさいタイプの猫だ。生粋の猫のように、外猫たちに負けないスピードで走っていくなんて信じられない。
 信じられないが、でも、ここにはいないのだから実際に起きたことなのだ。トトは、猫らしくしようと思えば猫らしい行動ができる猫であるらしい。

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 ともあれ、トトをさがさなくてはならない。味のしないトーストを食べたら、保健所や警察に電話をして、それから何をするべきか調べなくてはならない。それでもし見つからなかったら、家の人は私をぜったいに許さないだろう。いや、心根のやさしい人だから、しかたがなかったと言ってくれるだろう。でも私は私を許せないし、私たちのあいだには、何かどうにも埋めようのない溝ができるだろう。いや、そんなことよりも、トトが帰ってこなかったら、私ははたして今までどおりに生きていけるのだろうか。
 震えながら思い詰めていると、外でかすかに猫の声がした。えっ、と庭に視線を向けると、塀の上に灰色の梵字模様の猫がいる。私は玄関を飛び出した。私の姿を見つけ、トトは塀の上で微動だにせず鳴き続けている。塀の上に立つ、青空をバックにしたトト。キャリーバッグのなかではなくて、外の世界に立っているトトを、はじめて見た。
 うわー、トト、トト、トト、よく帰ってきたねえ、トト、逃げないでねトト、と私は両手をのばしてトトをしっかりつかまえて、塀から下ろして家に入った。その場にへたりこみそうなほど安堵した。

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 トトが家を走り出てから帰ってくるまで、私には途方もなく長く感じられたが、実際は五分もたっていない。猫には縄張りがあると聞いたことがあるが、帰巣本能の有無ははっきりとは解明されていない。家から一歩も出たことがなく、このあたりの地図も知らず、それどころか、アスファルトの上も歩いたことがないのに、トトはどうして帰ってくることができたのだろう? そもそもあの外猫たちを追いかけていって、きっとどこかで置いていかれて、はっと我に返ったのだろうが、いったいどこで我に返ったのだろう? どんなふうに帰ってきたのだろう? これらの答えを私が知ることは永遠にない。
 猫を外飼いしている人や、出入り自由にしている人ならば、今回の私の動揺と絶望はちゃんちゃらおかしいのではないかと思う。私が思うより、きっと猫はずっと賢くて、人間には計り知れない方向感知能力も地図把握能力も持っているのだろう。出ていった猫はきちんと帰ってくるのだろう。猫を飼って十年になるが、私はやはり未だに猫初心者のまんまである。
 帰ってきたトトは、「あーこわかった」とも「いやー、外出ちゃったわー、びっくりしたわー」とも「帰ってこられてほっとしたにゃあ」とも言わず、そんな表情を見せることもなく、ただ疲れたのか、いつもそうしているように丸い爪とぎのなかにぴったりとおさまり、寝はじめた。

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 トトが帰ってきて安堵したものの、流線のように走り去るサバトラ茶トラ灰色の光景が頭にこびりついて離れず、幾度も幾度も思い出されて、そのたびどきどきしてしまう。私にはトラウマ級の恐怖だった。そしてあの、青空を背景にして塀の上に立っているトトの姿が続けて浮かび、どきどきしつつ、複雑な感情を抱く。トトが外にいることの新鮮さと、異様さと、恐怖と、感動の入り交じったような、どこか感傷的な気分だ。

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 ところで私はサスペンス映画とホラー映画が大好きで、家の人が缶詰で家におらず、なおかつ友人知人と会食の予定がない日は、かならずDVDか配信動画サービスで映画を見ている。この日も夕食後、映画を見はじめたのだが、これが想像をはるかに超えておそろしい映画だった。その映画の恐怖と、早朝の脱走事件の恐怖が相まって、みずからの恐怖値の限界を超えたのか、だんだん笑えてきた。トトったら、完全に猫っぽかったなあ、と思うだけで笑いがこみ上げる。なんだってあんなに猫みたいになったんだろう。っていうか、そんなふうに思われる猫ってどうよ。笑いが止まらない。こわすぎると人は笑うのだとはじめて知った。

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 以来、玄関の出入りに慎重になった。トトは、やろうと思えばほんの一瞬、ドアが数センチ開いただけでひゅるっと外に出ることができる猫なのだ。玄関にトトがいるときはドアを開けず、離れてから開ける。ドアの横にガラス窓があるので、外から帰ってきたときも、内部を確認してなかに入る。
 家に帰ると、まずトトがいるか確認するようにもなった。よその猫が、ジャンプしてレバー式のノブをまわしてドアを開けたり、ガラス戸の鍵を器用に開けたりするのを、テレビで見たり、人の話で聞いたりしたことがあるが、トトはそういうことができない。引き戸のドアが、ほんの二センチ程度開いていたって、そこに前脚を差し挟んで開けるということをしない。開けて、とちいさく鳴くだけだ。だから、出かける前に家のなかにいたトトが、帰ってきたときにいない、ということはあり得ない。けれども私は脱走事件後、トトの見立てに疑いを持つようになった。トトはやろうと思えばできる猫だ。猫らしいことはいくらでもできる猫だ。でも、やらないだけ。だからわからない。いつ、猫らしく豹変するかわからない。


                               つづく

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次回の更新は11月22日(月)の予定です。

角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業で読売文学賞など受賞。

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