穴の底に降り立ち、光弘は男と対峙する。 「骨灰」#10
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穴の底に降り立ち、光弘は男と対峙する。 「骨灰」#10

得体の知れない怪異と不条理が襲いくる――。
鬼才が放つ、戦慄の長編ホラー。

天地明察』『十二人の死にたい子どもたち』「マルドゥック」シリーズ。
ジャンルを超越しベストセラーを生み出す鬼才・冲方丁が綴る長編ホラー小説「骨灰」(こっぱい)。『小説 野性時代』2021年9月号から満を持してスタートした連載を、順次配信していきます。(連載の続きがすぐに読みたい方は本誌をぜひ!)
建設現場で遭遇する不可解な事象、それをきっかけに身の回りに忍び寄る怪異、侵食されていく現実――。《からからに乾いた》戦慄のホラー小説をぜひお楽しみください。


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 ほら、これを使って上がってきて下さい。そう男に呼びかけたいところだが、そうしてもらうには、あのいまいましい鎖から解放してやる必要があった。
 光弘は、ふうっと息をついた。足下から目の前までゆっくりと立ちのぼってくる白い粉塵を軍手をはめた手で払うようにしながら、思い切って体の向きを変え、脚立に片方の足をかけた。
 ぐっと足で脚立を地面に押し込むようにし、自分の体重でひっくり返ってしまわないことを感触で確かめ、さらにもう一方の足もかけた。何段か降りて両手で支柱をつかんだ。閉じた支柱の間に、指や手の平を挟んでしまわないよう気をつけながら、慎重に降りてゆき、ほどなくして穴の底の地面に足をつけることができた。
 地面は思った以上に柔らかく、土というより砂を思わせた。そのせいで穴の底が実はすり鉢状になっていて、巨大な蟻地獄に入り込んだのではないか、という余計な想像を刺激された。そんな馬鹿な。だったらあのコンクリートの塊など、とっくに砂の中だし、もちろんつながれた男も引きずり込まれている──
 その想像に猛烈な恐怖を感じ、慌てて頭の中でストップをかけた。せわしなくヘッドライトの光を左右に放ち、暗がりに浮かび上がるゴミを追うようにしながら進んで、壁にもたれる男のそばに辿り着いていた。
 顔を覗き込もうとすると、光を浴びせられた男が顔をのけぞらせ、両手で遮るようにした。
「なんだよう。眩しいじゃないかよう。寝てただけなのによう」
 男が甲高い声で言った。口調はいたって普通で、拍子抜けするほど平静そのものだった。必死に助けを求めるとか、暴行を受けて息も絶え絶えといった様子もない。
「すいません」
 光弘がヘッドライトの角度を変えて男の頭上を照らすようにした。それからなぜか、この状態を記録しておくべきだという考えがわいた。タブレットを取りに戻ろうかとも思ったが、そうはせず、右手の軍手を外すと、ジャケットの懐から社用の携帯電話を取り出した。カメラモードにして男に向け、
「失礼します」
 と言って、手を下ろしていぶかしげにこちらを見上げる男を撮影した。
 さらに男の左足に施されたチェーンロック、鎖、コンクリートの画像を何枚か撮って保存していった。
「なに撮ってんのさァ」
 男が言った。声に、好奇の目で自分を見るなという怒りがにじんでいる。
「あ、申し訳ありません。仕事なんです」
 光弘はそう言いながら、むしろこの先は自分の仕事ではないと考えていた。この異様な状況をどう解釈するかは上司の竹中の仕事だ。あとあと何か問題になって自分がとがめられないようにしたいという自衛の思いもわいていた。それが結局は撮影した動機といってもよかった。
 だがそこで男が急にわめき出し、光弘をぎょっとさせた。
「仕事ォ? おれだってまだ働けるんだァ」
「え……、はあ」
「飯さえ食えばよォ、働けんだよ、おれァよォ。働けんだよォ」
 男の甲高く、哀れっぽい自暴自棄をふくんだ声の調子には、苛立たせられるだけでなく怖さを感じた。働けると主張する人間が鎖でつながれているさまには、逆に働けなくなったことを咎められて罰を受けさせられているような残酷さがあった。
「わかりましたから。落ち着いて下さい。事情を伺いたいのですが──」
「事情ォ?」
「はい。なんでこんな場所にいるんですか? 誰かに連れてこられたんですか?」
「ああ、わかんないよ、もう」
「……わかんない?」
「なんでか知んないけどさァ、ここにいないといけないんだろ? ああ、いい加減よォ、大儀だなァ。もう寝ちまいてえよう」
 男が悲しげに両脚を小さくバタバタさせ、じゃらじゃら● ● ● ● ● ●と鎖を鳴らした。たまらない音だった。穴に男の声と鎖の音が反響し、光弘の感情を多方面からひどく刺激した。哀れであり、たまらなくいらいらさせられ、不気味で仕方なかった。それまでひりつく空気に遮られていた、男のえたような体臭が漂ってきて、うっかり唾を吐いて、黙れと叫びそうになった。
「ちょっと、落ち着いて。今これを外しますから。一緒にここから出て、経緯を聞かせて下さい」
 相手と言うより、懸命に心の中で自分をなだめながら、光弘は軍手ごと携帯電話を懐のポケットに入れ、男の足首を拘束するチェーンロックを覗き込んだ。男はわめくのをやめて、光弘の行為をげんそうに見つめた。
 光弘はヘッドライトの角度をまた調整してチェーンロックの鍵穴を照らした。外すと言ったものの、持って来た鍵が適合しなければなすすべがない。その場合は地上へ戻って応援を呼ぶか、鎖を切断する器具を借りてくるかすることになる。
 頼むから正解であってくれ。祈る思いでチェーンロックの鍵穴に鍵を差し込んだ。一刻も早くここから出たい一心だった。そして二度と戻らずに済むことを願った。頼むからさっさと終わってくれ。
 鍵はぴったりだった。横へひねった。かちりと音を立てて男の足からチェーンロックが外れた。思わず深々と息をついた。安堵の汗がどっと噴き出した。
「あれぇ? とれたあ?」
 男が嬉しげに笑った。
「はい。ああ良かった。あれで上に出ましょう」
「ここ出るのかあ?」
「出ましょうよ、こんなとこ、ほら」
 苛立ちを隠しきれず、語気が荒くなった。どういう理屈でここにいるのかも説明できない男に怒りがわき、とにかくもたもたするな、という思いのほうが強くなっていた。
 光弘の勢いに男が身をすくめつつ立ち上がり、よたよたと脚立のほうへ歩いていった。光弘は軍手を懐から引っ張り出してはめた。男が慣れた様子で脚立をA字形に広げ、側面が壁にぴったりつくようにして固定し、するするとのぼっていった。
 駄々をこねられて長々とこの穴の底にいるはめになるのではないかという不安と苛々を頑張って抑えつけていた光弘は、その様子にほっとし、自分も脚立に取りついた。
 とたんに背後で何かが身を起こして追ってくるという想像が襲いかかってきた。
 それは途方もなく強烈な実感を伴う想像であり、光弘は具体的に何が追ってくるのかまったくわからないまま悲鳴を上げそうになった。恐ろしさのあまり振り返って確かめることすらできなかった。振り返れば取り返しがつかないことになる──
 落ち着け。背後には何もない。ただ大きな空間があるだけで、さっき見た限り誰もいなかったじゃないか。なのにいったい何が怖いってんだ。自分に尋ねることで恐怖心を抑えようとしたが、暗く巨大な海に一人で取り残される光景が脳裏に現れ、かえって冷たくとがった恐怖が背後から全身に突き刺さってくるようだった。
 その感覚に圧倒されそうになりながらも光弘は必死に歯を食いしばって耐え、脚立を一段また一段とのぼっていった。ここで足を滑らせてはならない。さもなくば穴の底に吞み込まれて二度と出られなくなる。本気でそんなことを思いながら、心臓をばくばく鳴らし、息を荒くしながら脚立をのぼっていた。男が脚立をのぼりきって穴の縁の向こうへ消えた。光弘もなんとか穴の縁まで来て、粉塵の積もった地面に手と膝をついて這い出した。そのままの姿勢で一目散に神棚のそばへ這い寄り、恐怖で息を詰まらせながらテーブルにすがりついて立った。
 なんとか安全地帯に戻ることができた。そう思ったが、安心とはほど遠かった。真っ暗な海で、ちっぽけな浮き輪にしがみついて必死に顔を海面から出しているだけという気分だ。
 ぼんやり突っ立ったままの男へ、強い口調で言った。
「早くここから出ましょう」
 乾燥した空気のせいで喉がガラガラしている。ん、ああ、と男が申し訳なさそうにうなずいた。
 先ほどまでの男の状態を思えば、相手を気の毒がっていたわるべきだろうが、そんな気にはとてもならなかった。男が今後、この現場でどんな目に遭ったか世間に吹聴しないよう、今から宥めておくべきだった。会社が被るかもしれないダメージを最小にしておくことが自分の仕事のはずだった。だが、まったくそんな風には思えなかった。
 愚かな作業員同士の制裁だか何だか知らないが、おかげで面倒ごとに巻き込まれたという腹立たしさばかりがあった。あるいは心を支配するほどの恐怖が。


つづく

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