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【連載】明日も一日きみを見てる 第16 回 | 角田光代

小説 野性時代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!

毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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新キャラ・トラ男は迷子猫なのか、野良猫なのか。
野良だったらつかまえて去勢手術をしなくてはと考えていたら……。

第16回 トラ男その後と珍獣事件

 あらたに登場したトラ男であるが、猫小屋に逗留中、迷子猫かもしれないと思い、区役所と動物愛護相談センターに登録しておいた。このとき、去勢しているか否かと訊かれたのだが、私は去勢した雄猫を見たことがなく、どのように見分けるのかがわからなかった。動物愛護相談センターの人に訊いてみると、うしろ姿のおしり部分にふさふさしたものがついていたら未去勢ということらしい。ずっと小屋に入っていたトラ男だが、幾度か出てくる機会になんとかうしろ姿を確認すると、ふさふさしたものが、たしかについている。

 私の住む区では地域猫の活動がさかんである、ということは知っていた。野良猫に不妊手術を施して、地域猫として面倒を見る。耳の先がカットしてあれば、それは地域猫のあかしである。私はその活動に賛同しているので、もしトラ男が野良猫であったのなら、なんとかせねばならない。どうやら、区には、研修を経て資格を持った動物ボランティアの人たちがいるらしく、彼らに相談するといろいろと教えてくれるらしい。またしても区役所の該当部署に連絡し、そのボランティアさんと連絡を取りたい旨を伝えた。

 私は今まで、こういうことといっさい無関係に暮らしてきた。こういうこと、というのは、外を歩いている猫が野良なのかそうでないのか見分けるとか、迷子猫にあったらどのように対処するのかとか、地域猫の活動(TNR)とか、動物ボランティアさんの存在とか、それらについてほぼ何も知らずに過ごしてきた。集合住宅に住んでいたときには、トト以外の猫は見かけず、道ばたで見かけるとしたらそれは猫だまりにいるお決まりの猫たちで、そのお決まりの猫たちはみんなだれかの外猫か、さくら耳の地域猫だった。だから、区役所に電話をするにしてもトラ男のうしろ姿を確認するにしても、あたふたと悩み考え緊張していた。

 もしトラ男をつかまえて手術するとしたら、どんなふうにつかまえたらいいのか、いやそもそもつかまえられるのか、つかまえたらどの病院に連れていけばいいのか、その後はどうすればいいのか。調べれば、だいたいの流れはわかるし、うちからは遠いが区内で野良猫の不妊手術をしてくれる病院もあることがわかった。でもはたしてそんなことが私にできるのか。いやいや、わからないことは、きっとボランティアさんが相談に乗ってくれるはずだ、と思うが、落ち着かない。

 ボランティアさんの連絡先を教えてくれるはずの区役所からは、なかなか連絡がなかった。動物愛護相談センターの迷子猫登録を知った人から、一件、問い合わせがあった。どうかトラ男がこの人のおうちの猫でありますようにと祈りながらやりとりをしたが、結局、この飼い主さんの猫は、同じ茶トラでもトラ男と柄が異なった。ご自身だって猫がいなくて必死のはずの飼い主さんは、「もしその猫ちゃんが迷い猫だったら、一日も早く飼い主さんのもとに戻れるようにお祈りしています」とメッセージをくれて、私は思わず落涙した。その方のもとにも猫ちゃんが戻ってきますようにと祈らずにはいられない。

 そうしてボランティアさんの問い合わせをした区役所からは連絡がないまま、トラ男は自身でけがを完治させ、チェックアウトして出ていったのである。その後、深夜に猫たちの低く威嚇し合う声が聞こえ、「ああ、トラ男……」と思ったものの、朝になってもトラ男の姿はない。トラ男にけんかをふっかけられたのか、しょっちゅうきていたとらちゃんも姿を見せなくなった。

 その後一度、トラ男を見つけたことがある。姿を消して一週間ほどたったある日、家の前の道路にちょこんと座っていて、「あっとらちゃん……」と近づくと、とらちゃんより険のある顔、トラ男である。「トラ男!」と思わず呼ぶと、トラ男はびっくりするような大声でにゃわにゃわと鳴く。けがをしていたときに休養していた場所を思い出したのか、ごはんをもらったことを思い出したのか。はてここでまたごはんをあげたほうがいいのか。トトがいるから家にあげることはできないが、ごはんをあげてここに居着くように仕向け、区役所の人がボランティアさんの連絡先を教えてくれるのを待つのがいいのか。悩みながらいったん家に入ると、窓から見えるトラ男の姿にトトが警戒し、にゃっにゃっと聞いたことのない声をたてている。うーん、やはりトラ男を居着かせるのはまずいのか。考えていると、トラ男はそのまま去っていってしまった。

 連絡してから二週間ほどたって、区役所の人がようやく連絡をくれ、ボランティアさんの連絡先を教えてくれた。トラ男はもう姿を見せず、夜中の威嚇の声も聞こえてこない。とりあえず、もうトラ男は家のまわりに見あたらないこと、もし見かけたらすぐに連絡するということを、そのボランティアさんに伝えた。

 それからさらに日にちがたったある夜、喉が渇いて目が覚めた。階下で水を飲んでいると、暗闇のなか、トトが窓にはりついているのが見えた。もしやトラ男? トラ男カムバック? とそっとトトに近づくと、窓の外の何かが動いたのか、トトはトトに似つかわしくないすばしっこさでべつの部屋の窓に移動する。私も追いかけ、トトの背後からおもてを見た。暗い庭の、街灯のぼんやりした明かりのなかを、のっそり歩く動物がいる。トラ男! と思うが、トラ男よりひとまわり大きく、尻尾が長く、まるまると太い。庭から歩道に向かってのっそり歩いていく一匹のあとを、もう一匹、おんなじくらい大きなものがついていく。先を歩く一匹は道路を渡って向かいの家の門をくぐり、振り向いてもう一匹を待っている。もう一匹が追いつくと、二匹でのそのそと向かいの庭の奥に消えていった。窓にはりついたトトは、鳴くこともなくじっとその姿を見守っている。トト、今のは何? だれ? と訊くが、答えはない。

 深夜の謎の生物出現について家の人に話した数日後、帰宅途中の家の人から写真が送られてきた。夜更けの道路を歩く、まるっとした体軀、太い尻尾の生物。夜中に私とトトが見た生物にそっくりだ。家の人によると、どうやらタヌキのようだ。なんとタヌキまでがやってくるのか……。
 夜中の庭に、野良猫あるいはどこかの家猫、タヌキ、そのほかにも何か出入りしているのかもしれない。このごろトトは、朝起きると、家じゅうの窓を見てまわってから朝ごはんを食べるようになった。庭にいったい何が出入りしているのか、トトだけが知っている。朝のパトロールをしているトトの姿を、かつてない尊敬のまなざしで見てしまうようになった。
                               つづく

角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業などで読売文学賞受賞。

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