【試し読み】ひきなみ #4 |千早 茜
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【試し読み】ひきなみ #4 |千早 茜

千早 茜さんの『ひきなみ』(角川書店)が、4月30日に発売しました。刊行記念として、本作の魅力がたっぷり詰まった冒頭を大公開!
ぜひお楽しみください。

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【あらすじ】
私たちずっと一緒だと思っていたのに。
彼女は脱獄犯の男と、島から消えた。

小学校最後の年を過ごした島で、葉は真以に出会った。からかいから救ってくれたことを機に真以に心を寄せる葉だったが、ある日真以は島に逃げ込んだ脱獄犯の男と一緒に島から逃げ出し、姿を消してしまう。裏切られたと感じた葉は母に連れられ東京へ戻るが、大人になって会社で日々受けるハラスメントに身も心も限界を迎える中、ある陶芸工房のHPで再び真以を見つける。たまらず会いに行った葉は、真以があの事件で深く傷ついていることを知り――。女であることに縛られ傷つきながら、女になりゆく体を抱えた2人の少女。大人になった彼女たちが選んだ道とは。


「おばあちゃん」と台所へ飛び込む。
 知らない女の人に「ほいじゃ、これ運んでなあ」と唐揚げとレモンの皿を渡される。「おばあちゃん、携帯電話が」と叫ぶと、「いけん言うたじゃろ」と小さくため息をつかれた。「でも……」といううめき声が喉の奥でつぶれる。
 油の匂いのする皿をテーブルに置いて、元の場所に座る。女の子たちが心配そうに目を向けてきたが、なにか言ったらそのまま泣いてしまいそうだった。台所にいた女の人たちがやってきて部屋がぎゅうぎゅうになる。これでは通れない。熱気がこもって、奥の部屋の男の人たちはますます声が大きくなっていく。
「後でなあ」と、隣の前歯のでた子が慰めるように言う。
「しゃあないよ、男子はアホじゃけえ」
 他の子も同じことをくり返す。けれど、その声には目立つものを持ってきた私が悪いのだと責める感じがあった。わかっている。おとなしくしておくべきだった。
 みんな楽しそうに飲んだり食べたりしていた。女の子たちも喋らなくなってしまった私に飽きて、知らない話ではしゃいでいた。私はじっと身をかたくして、男の子たちが携帯電話を返してくれるのを待った。
 こちらの部屋のテーブルと奥の部屋のテーブルは長くつながっていて、私の携帯電話を取ったと思われる男の子が神棚近くに座っているのが遠くに見えた。体の大きな男の人の横でおにぎりを食べている。私があっちに行けないのを知っているようだった。ちらっと目が合うと、目をむいて変な顔をしてくる。顎に米粒がついていて、汚い、と思った。あんな子に母からもらった携帯電話を触られるなんて。
 どうしよう、どうしようと考えるうちに時間が経っていった。早く帰りたくても、携帯電話を置いていくわけにはいかない。終わりまで待って、片付けをするふりをして祖父に取り返してもらうよう頼むしかない。でも、夕方に「いかん」と強い口調で言われたことが気にかかる。だめかもしれない。
 目の前の食い散らかされたちらし寿司の桶がじわっとぼやけた。
 息をそろそろと吐く。
 泣きたくないのに、もう我慢ができない。
 そのとき、ばんっと視界が上下に揺れた。驚いて、顔をあげる。
 みんな同じ顔をしていた。馬鹿みたいに口をぽかんとあけて、箸を持ったり、グラスをかかげたりしたまま、同じものを見ていた。
 髪をなびかせて女の子がテーブルを走っていく。皿が飛び、酒瓶が倒れた。それなのに、まったく音がしなかった。大きすぎる彼女の上着がふくらんで、細い脚がテーブルの上を駆けていくのを、ただ見つめていた。
 それは、本当に一瞬のことで、テーブルの奥にいた男の子は骨つきチキンを持ったまま彼女に蹴られた。襟首を摑つかまれ、引き起こされ、平手をはられた。まるで柏手のような見事な音が
響いた。
 その音ではっとみんなが我に返った。
「なにしよんじゃあ!」と誰かが吠え、大騒ぎになった。
 男の子はひっぱたかれた頰を押さえて呆然としていたが、畳に落ちた食べかけのチキンを見て、火がついたように泣きはじめた。
「女にぶたれて泣くな!」と横の大きな男の人が怒鳴った。
 幼い女の子がひゅっと喉をならして、しくしくと泣きだす。倒れた瓶からビールが流れ、滝のように畳にこぼれる。女の人は台所に布巾を取りに走り、男の人がぎこちない動きでぐちゃぐちゃになったテーブルの上を片付ける。酒をあびた上着を脱いだはずみにまたなにかを倒したり、人にぶつかったりする。
 騒ぎの中、女の子の姿だけがなかった。
 土間のほうへ走り抜けていった姿を見た。
 気がついたら立ちあがっていた。薄暗い板の間にでて、土間に飛び降りる。靴下ごしにひやっとした地面の感触が伝わってくる。
 重い木の戸が、子供が通れるくらいの幅で開いていた。外にでると商店街をさっと影が横切った。追いかける。影は肉屋を曲がった。
「待って!」と叫んで暗い道に入ると、なにかに思いきりぶつかった。ふらついて石塀に手をかける。砂と小石がてのひらで崩れ、暗闇に埃っぽい匂いがただよった。
 かさりとウィンドブレーカーがこすれる乾いた音がした。
「これ」と目の前に銀色の機械が差しだされたのが、うっすら見えた。
「松戸さんのポストに入れておくつもりだった」
 温度のない、たんたんとした声だった。いつの間に携帯電話を取ったのだろう。お礼を言うべきなんだろうか。でも、どうしてこんなことをしてくれたんだろう。
 聞きたいことはいっぱいあって、女の子の顔もよく見えなくて、携帯電話が無事なのかも気になった。なのに、私は差しだされたそれを手に取れず、暗闇でじっと目をこらすだけだった。
「……松戸じゃなくて」
声がもれた。
「葉。桑田葉」
「よう」
 女の子がつぶやいた。さっき人を蹴って叩いたとは思えない、穏やかな声だった。
「葉っぱの、葉」
 そう言うと、「わかった」と返ってきた。わかった。その言葉を胸の中でくり返す。
 商店街のほうから人の声がした。さっと女の子の体が動く。私の手首をつかんで走りだす。
 彼女の髪が私の顔にかかってくしゃみがでた。ぐい、と手首を握る手に力が入って、走るスピードがあがった。
 暗い細道を何度も曲がった。空き家の庭を横切り、茂みに突っ込み、石に足をとられながら走った。転ばないようにするのに必死で、怖さは感じなかった。どこをどう走ったのか、気がつくと車道にでていた。
 女の子は走るのをやめて、手を離すと車道にそって歩きだした。街灯の光がぽつんぽつんとコンクリートの道路に落ちている。片側は山で、車道の向こうは海のようだった。波の音が聞こえた。
 岩の突きでた崖がけを曲がる。雲が動き、月がのぞいた。道の先に海岸が見えた。砂浜が白く光っている。女の子が、いこう、というように指をさす。
 うなずいて、足の痛みを感じた。見ると、左足は靴下が半分脱げて、右足の靴下には穴があいて親指が突きでている。靴下は土でごわごわに汚れて枯葉や蔦がからまっている。女の子がふり返る。私の足を見て、目を丸くした。「ごめん」と唇が動く。
 ぶっと噴きだしてしまった。あんな騒ぎを起こしても平気な顔をしていたのに、いまさら驚いた顔をするのがおかしくて、足の痛みがどこかへ飛んでいった。笑い転げる私を見て、女の子は困ったように首を傾かしげて、自分のスニーカーを片方脱いだ。携帯電話と一緒に渡してくる。
「でも」と言うと、「いいから」と片方の靴で歩きだした。無口だ。そして、人を笑わない子なのだと思った。なんだか息が苦しくなる。携帯電話を見ると、電波の棒が二本たっていた。
「やった、電波が戻った」
 女の子がこちらを見る。
「新しい橋の近くだからかな。まだ工事中だけど」
 そう言って彼女が見た先には、青白く発光する橋があった。山の上から、光そのものみたいに夜を裂いて伸びている。東京で見ていた高層ビルのライトやイルミネーションと同じひんやりした色をしていた。こんなにも強い光だったなんて知らなかった。
 足が砂に埋まる。いつの間にか、浜辺まで来ていた。新しい橋から目をそらし、海を見て歩く。海は真っ黒だった。ゆっくりと波の音が響く。大きな生き物が動くような音。
「凪いでいる」と女の子がつぶやく。背中にたれた長い髪は、夜と海と同じように真っ黒で、ときどき月の光をぬるっとうつした。
 暗い海の向こうで小さな赤い光が点滅した。
「あれは灯台」
 そう言う女の子の発音が他の子と違うことに気がついた。
「この島の子じゃないの?」
「隣の亀島にじいちゃんと住んでいる」
 女の子は木の枝を拾って、砂浜に字を書いた。月があかるいのでよく見える。
「真……」
 ひとつめの漢字しか読めない。
「真以」と静かな声が言った。砂の字をスニーカーのほうの足で消す。
「桐生真以。じいちゃんは平蔵。亀島は別荘がいっぱいあるから管理人をしている。めずらしい灯台があるみたいで、ときどき人もくる」
「みかんは作ってないの?」
「亀島はだめらしい。神様の島だから土を掘ったり、埋めたりしてはいけないんだって。だから、墓もない。死んだら海に流す」
 真以はまっすぐに海を見つめた。
「なんかきれいだね」
「そう?」
 私を見る。黒い目だった。みんな黒い目をしているのに、彼女の目だけはやけに黒いと感じる。まだ言葉を話さない赤ちゃんみたいだ。じっと吸い込むように見つめてくる。
「きれいかな?」
「きれいじゃない?」と聞き返して、「きれいだと思う」と言い直した。
「遊びにくる?」と、真以は私を見つめたまま言った。
「いきたい」
 不思議だった。自分の口からこんなにも迷いなく言葉がでてくるのが。指の先がじんじんと熱い。
「わかった」
 真以はすっと目をそらした。
「約束しようか?」
「いい」
「どうして」
「約束するのは信じていないみたいだから」
 そんなこと考えたこともなかった。私がぽかんとすると、真以はちょっとだけ笑った。
「でも、私、三ヶ月しかここにいないから」
 そう言うと、「そうなんだ」とだけ返ってきた。ちょっと寂しくなる。会ったばかりだというのに残念がって欲しい気持ちがあった。
「うん、七月まで。ノストラダムスの大予言って、知ってる? 七月に恐怖の大王が世界を滅亡させるんだって。だから、それまでに東京に帰りたいなって。ねえ、信じる?」
 前の学校で毎日のように噂になっていたことを話した。母にもそう言って早く迎えにきてとお願いしたのだった。真以は黙って聞いていたが、「世界が」とだけつぶやいた。信じるとも信じないとも言わない。その静かな顔を見ていると、なんだか恥ずかしくなった。私も信じていたわけではなかった。教室で仲間外れにならないために怖がるふりをして、母にまだ子供だと思われたくて泣いてみせたのだ。本当は、世界なんて大きなものは知らない。
「これ、約束の代わりに」と手首からヘアゴムを外した。お母さんと作った、と言いかけて、真以がおじいさんのことしか話さなかったのを思いだしてやめた。
「ありがとう」
 真以は青いストライプのほうを選んで、髪をひとつにまとめた。真以の長い髪は結んでも尻尾のように背中で揺れた。ざくざくと砂を踏んで歩いていく。けれど、離れすぎることはなく、少し先へいくとゆるやかに戻ってくる。
 片方だけ靴下の足が砂に沈むのが気持ちよかった。真以もその感触を楽しんでいるのだと気づいて、笑いかけると笑い返してきた。
 東京も、母のことも、ノストラダムスの大予言も、寄合での騒ぎも、ぜんぶが遠くなって、どうでもいいことのように思われた。この夜の感触こそが世界なのかもしれない。ふと、そんなことを思う。真以と目が合う。話したいことはあるのに、言葉にするとこの時間が壊れてしまいそうな気がして、二人で黙ってぐるぐると歩き続けた。
 空が鳴り、雲が流れた。真以がふっと顔をあげた。
 白いバンがこちらへ向かってやってくる。「どうしよう」と言いかけたとき、ポケットの携帯電話が高く鳴り響いた。ぴりりりと夜を裂くような高い音。いそいで通話ボタンを押す。
「葉ちゃん?」
 母の声が聞こえた。ざらざらとかすれる。
 真以の姿を探すと、砂浜を歩いていく後ろ姿が見えた。右と左で大きさの違う足跡がまっすぐに続いている。
 道路に白いバンが停まって、ドアが開いた。真以が片手をあげて、ウィンドブレーカーがふくらんだ。重い風が海から吹いて、母の声をかき消した。

続きは本書でお楽しみください。

千早 茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞も受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞。著書に『男ともだち』『神様の暇つぶし』『さんかく』『透明な夜の香り』や『犬も食わない』(尾崎世界観との共著)、『鳥籠の小娘』(絵・宇野亞喜良)、エッセイ集『わるい食べもの』など。

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