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【連載】わたれない #3 | 彩瀬まる

雑誌「その境界を越えてゆけ」にて掲載された、彩瀬まるさんの「わたれない」を特別に一挙公開! 毎週月曜日更新の予定です。

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あらすじ
会社を辞め、育児をメインで担当することになった暁彦。
“ママじゃない”ことに悩むが、あるブログに出会い……。

「あ、なにこれ。かわいい」
 数日後、出張から帰ってきた咲喜はカラフルな花の形や、赤ん坊が持ちやすい小さなバナナの形をした歯固めを面白そうに手に取った。どれがいいか分からずに、色々買ってしまった。
「歯が生えただろう? 歯茎が痛いみたいでぐずってたから、買ってみた」
「ふーん、そんなこともあるんだ。痛いのかー、かわいそうに」
 星羅は咲喜に抱き上げられ、嬉しそうに手足をばたつかせた。その手には、暁彦が用意した冷蔵庫で冷やすタイプの、魚の形の歯固めをしっかりと握っている。
 ペンギンさんのブログは、それから暁彦の拠り所になった。
 星羅への対応で迷いが生じたらとりあえずブログを開き、悩みの内容を検索してみる。三歳と零歳の子を育てているペンギンさんは、とにかく子育て関連のお役立ちグッズや、子供を喜ばせるちょっとした遊びやテクニックに明るい。記事をさかのぼると、おっぱいを吸われると不快感を感じる体質であることも綴られていた。それで子供を宥める手札を増やそうと試行錯誤したのかもしれない。母子の特別な絆とか、授乳を通じた信頼形成とか、暁彦からすれば困惑するしかないカードを持ち出さないため、ペンギンさんのブログはとても読みやすかった。
 歯固めに続いて、テーブルの角などにつけるコーナーガードとベビー用腹巻きを買い、テレビの画面にパソコンを繫いで赤ん坊が夢中になるという動画を流し始めた辺りで、咲喜に声をかけられた。
「最近、なんか色々試してる? ずいぶん慣れてきたよね」
「そう?」
 内心、ずいぶん得意だった。ペンギンさんが紹介していた、ほんわかした絵柄の動物たちが次々に「いないいないばあ」をしてくれるアニメーションに星羅は釘付けになり、それを流しておけば十分くらいは泣かないで座っていてくれるようになった。おかげでうどんなりパスタなり、簡単なものなら自由な体でさっと夕飯を作れる。常におんぶして様々な家事を行っていた頃に比べて、体の軽いこと、軽いこと。
「実はいいサイトを見つけたんだ」
 咲喜にとっても面白いだろうと、ペンギンさんのブログを示す。咲喜はふーん、と鼻を鳴らし、パソコンの前に座った。夕飯の前、食後、そして星羅の寝かしつけを終えてからも、熱心にブログを読んでいた。

 ペンギンさんとの待ち合わせにはまだ時間があった。橋の手前の森林公園に立ち寄る。もうすぐ商品を委託しているネットショップでセールが行われる。それに間に合うように、新作アイテムのプロモーション写真を用意しておかなければならない。先ほどマンションの廊下で撮った写真はエモーショナルでアイキャッチにはいいのだが、服を売るとなるともっと一つ一つのアイテムにピントを合わせた写真が必要だ。
 日頃から利用している人通りの少ない撮影ポイントに向かい、コッペくんとロールちゃんを取り出した。秋の新作はトップスが六点、ズボン及びスカートが四点、ワンピース三点、コートが二点。靴や帽子といった小物も合わせてコーディネートを考え、日差しの角度や背景の木々とのバランスを調整する。赤とんぼの長袖シャツ、葡萄色のズボン、金木犀のワンピースはもちろん、フェルトで作った林檎を縫いつけたスカートや、黄金色の銀杏の葉をいっぱいに散らしたコートも撮った。
 暁彦はこれらの人形の服を単品ならだいたい七百円、コーディネートした三点セットなら二千円で販売している。サイズには少しゆとりを持たせ、コッペくんやロールちゃんだけでなく、別のおもちゃ会社が販売しているジミーちゃんやちとせちゃんなど、体の寸法が少し違う人形にも着せられるように作っている。他、リカちゃんやシルバニアファミリーなど、サイズのかけ離れた人形に関しても要望があれば、受注生産を行う。親子コーデが流行っている影響か、たまにロールちゃんとおそろいの服でお出かけしたいという子供もいるようで、「この服とまったく同じデザインで子供服を作って欲しい」といった注文に、割増料金で応じることもある。
 星羅が二歳の頃、ロールちゃんの着せ替え遊びにはまったことがきっかけで、暁彦は人形の服を作り始めた。おもちゃメーカーが出している人形の服は成人の服が普通に買えてしまうくらいには値が張っていて、自分で作った方がよっぽど安上がりに感じたからだ。
 初めは適当な生地と型紙を買い、シンプルなワンピースやパジャマを漠然と作っていた。しかしレースだったりビーズだったりを布に縫いつけ始めた辺りから、時間を忘れるほど夢中になった。息を詰めて黙々と美しく精密なものを作っていると、虫の羽を模写していた時と同じ脳の一部分がぞわぞわと蠢き、深い喜びがあふれ出すのが分かった。
 自作した服の数はあっという間に三十を超え、これは単なる家庭内の趣味に収まらないと感じた暁彦は、ネットショップを通じて手作りした人形の服を売り始めた。初めの二ヶ月は低調だったが、次第に注文数は伸びていった。細部までこだわりを感じる、甘すぎないけどさりげなく可愛い、ユニセックスな雰囲気がする、とショップには嬉しいレビューが集まった。買ってくれた人たちも、まさか有機的で細かいデザインが虫の羽から着想を得ているとは思わないだろう。面白がってもらえて、嬉しかった。
 一年ほどで開業届を出し、仕事を人形服ブランドの運営一本にしぼった。今では毎月、かつての仕立て直し屋のアルバイト代と同じぐらいの利益が出ている。好きなことと仕事がうまく嚙み合った自分は運がいい、と暁彦は思う。
 撮影の途中、人が通りかかった。
 暁彦はバッグの中を覗くふりをして、さりげなく人形を体で隠した。過去に何度か不審者と間違われて公園の管理者や警察を呼ばれたことがあったからだ。たまたま撮影の位置取りが悪く、公園で遊ぶ児童達を盗撮していると疑われたこともあるし、真っ昼間から裸の人形を持ってうろうろしているなんて変質者じゃないか、と不躾に決めつけられたこともある。自分は運がいいし、着せ替え好きの女の子やその母親を中心とするお客さんが喜んでくれるのだから、いい仕事だと思う。ただ、だからといって、それだけで社会と仕事の歯車が隙間なくかっちりと嚙み合うわけでもない。
 コッペくんやロールちゃん、いわゆる愛育ドールと呼ばれるおもちゃは、女の子のためのものというイメージが依然として、ある。自分がもしも女性だったら、人形が趣味の人、と受け取られることはあっても、変質者とは思われないんじゃないか。そう考え始めると、口の中が苦くなる。
 十メートルほど離れた原っぱから、賑やかな子供の声が響いてきた。
 茂みの向こうで、同じ色の帽子を被った十数人の幼児たちが追いかけっこをしている。近くにエプロンを着けた保育士の姿もある。どうやら近所の保育園の子供たちのようだ。帽子の色を見る限り、星羅が行っているところとは別の園だ。
 また不審者に間違われてはたまらないので、人形や服を仕分けしてバッグにしまう。そろそろ出発すれば、待ち合わせの時間にちょうどいい。
 バッグの中に、水色の紙袋にリボンの形のシールを貼った包みが見える。ペンギンさんへのプレゼントだ。喜んでもらえるだろうかと、自然と頰がゆるむ。
「ううん、きみちゃんおんなのこだから、おすもうまけちゃうの」
 柔らかい風に乗って、ふ、とみずみずしい子供の声が耳に届いた。振り返る。追いかけっこを終えた五、六人の幼児が、集まって次の遊びの相談をしているようだった。女の子の一人が真面目な顔で首を振っている。きっと、あの子が言ったのだ。あの子にそう教えた大人がいるのだ。暁彦はバッグを肩にかけ、その場を離れた。

 ペンギンさんのブログを「いやだ」と咲喜は言った。
 とても歯切れ悪く、どこか、苦しそうに。
「……どうして?」
 暁彦は慎重に、なるべく咲喜に圧を与えないよう聞いた。咲喜は眉間に薄くしわを寄せて、つっかえつっかえ答えた。
「なんか……なんか、いやだよ。星羅の子育ては、私と暁ちゃんでやるものでしょう。それなのに、インターネットの向こうの知らないママの意見をそのまま取り入れるの、変な感じ。星羅に関して、なにか困ったことがあったら私に言ってよ。二人で相談して、解決すればいい」
「……それはその通りだけど」
 でも、自分も咲喜も星羅のぐずりの原因が「歯ぐずり」だと思い当たらなかった。もしペンギンさんのブログを見ていなかったら、今でも星羅は腫れて熱を持った歯茎に苦しんでいたことになる。自分たちが相談すれば、なんでも問題が解決出来ると思うのは危うくないか。いや、それよりも。
「星羅がもっと小さい頃、咲喜のママ友の意見を汲んで、おすすめのベッドメリーを買ったり、寝返り防止のタオルを巻いたペットボトルを用意したりしたじゃないか。あれと、なにが違うの?」
「だってそれは、高校の頃の同級生だもん。信頼出来るよ」
「俺だって、この人のブログを頭から鵜吞みにしてるわけじゃない。星羅の様子を見ながら、こうしたらもっと良いかもしれないっていう可能性を拾っているだけだよ。高校の同級生が、必ずしも星羅にぴったりのアドバイスをするわけじゃないし、インターネット上の情報が決まって役に立たないわけじゃない。それは、情報を受け取るリテラシーの話じゃない?」
 咲喜は喉の奥で鈍くうなった。普段はあまり言いよどむことのない人なので、珍しい。答えを待つ間に、暁彦は細かく刻んだ野菜と卵と米をとろとろに煮込んだ雑炊を吹き冷まし、星羅の口に差し入れた。ちゃ、ちゃ、と舌を鳴らしておいしそうに食べる。顆粒だしを鰹から昆布に変えたのが良かったのだろうか。よく食べるのでまた作ろう。ふくふくした口からこぼれた野菜の欠片を、丸っこいスプーンですくう。
「それに、俺の元同僚や友人でがっつり育児をしている人って今のところ思いつかないから、ちょうどよく相談出来る相手がいないんだよ。インターネットが一番手軽じゃないか」
「……今さらなんだけど、保育園の送り迎えで他の保護者と仲良くなること、ないの?」
「ない、ない。お互いに忙しいから、すれ違いざまに挨拶するだけ」
「じゃあ公園は?」
「公園なんか、時々他のママさんに警戒されてる感じするもん。星羅が公園で会った子と遊び始めたら、怪我させないようにとか、おもちゃをとっちゃわないようにとか、一応子供らのそばに様子を見に行くだろう? 他のママたちもそうしてる。でも俺が近づくと、結構な確率で『さああっちに行こうね』って自分の子を抱き上げてどっか行っちゃう」
「なにそれ。気のせいじゃない?」
「ちょくちょくあるよ。他にもデパートとかのオムツ替えコーナー……ほら、あの台がずらっと並んでるやつ。星羅のオムツを替えようとしたら、隣でオムツを替えようとしていたママさんが急にやめて、いなくなったこともあった」
「……よくわかんない。私は、そんなことしない」
「それは咲喜が、育児する男性を身近に感じてるからだろう。そうじゃない人も、まだたくさんいるんだ」
 男性保育士が園児にわいせつな行為をした、父親が娘に性的虐待を行った、PTA会長が児童を殺害した容疑で起訴されたなど、ショッキングな小児性犯罪が時折報道される。もちろん小児性犯罪は加害者が女性であるケースもあるし、子供への虐待そのものは父親よりも、育児を担うことの多い母親の方が件数が多いらしいが、それでも「男性が育児に関わること」への強い緊張感を持つ人はいるのだろう。
 だけど自分は、ただ星羅を育てているだけだ。隣でオムツ替えをされている女児の体に興味を持つと思われるのは心外だし、地味に辛い。
 咲喜は難しい顔で、暁彦が作ったアンチョビとトマトのパスタを口に運んだ。
「……これ、めちゃくちゃおいしい」
「でしょう。黒オリーブ、刻んで入れてあるんだ」
「なんかー……」
「ん?」
「私もそういう固定観念に囚われてるっていうか……紹介してくれたブログを読んで、変に辛くなったのは、私はあんな風に子供に寄り添って暮らしてない、暁ちゃんに任せちゃってる、って後ろめたく思ったからかも……しれない。やるべきことをサボっているって言われた気分になったし、暁ちゃんに、よその奥さんはこんなに子育てしてるって、思われるのはいやだって、思った」
 暁彦は数秒、言葉を失った。
「思うわけ、ないじゃないか!」
 変わり者で、翻って先進的で、性別のイメージに囚われないタイプだと思っていた咲喜が、こんなことを言うなんて。
 その日の深夜、星羅の寝かしつけを終えて寝室を出ると、ダイニングテーブルで咲喜が市から送られてきた一歳半健診の書類を記入していた。
 眉間のしわが、やけに深い。
「受診前のアンケートの、保護者に関する質問が、ぜんぶママ宛てになってる」
「ええ?」
 差し出されたプリントを読む。確かに質問は、すべての文章に「ママ」の二文字が入っていた。最近のママの気持ちでぴったりくるものをすべて選んで下さい(楽しい、悲しい、不安、怖い、など感情を示す様々な単語が並べられている)。ママが子供と接していて辛いと感じることはありますか(よくある、時々ある、どちらかといえばない、まったくない)。ママが育児で行き詰まった時に、相談出来る相手はいますか(パパ、両親、義理の両親、保育園の先生など、複数の選択肢が用意されている)。パパは育児に協力的ですか(おおいに協力的である、おおよそ協力的である、どちらともいえない、あまり協力的でない、まったく協力してくれない)。このように育児のメインプレイヤーは「ママ」であると、ひとかけらの疑いもなく思っている文面だった。
「俺さみしい」
「私は、すごく悔しい」
 咲喜は、パパは育児に協力的ですか、の質問の「おおいに協力的である」という回答にぐりぐりと二重丸をし、「主に父親が子供の世話をしています」と欄外に書き添えた。
「暁ちゃんの置かれている状況が、少し分かった気がする。これは、確かにいやだね」
 ふー、と深く息を吐き、咲喜は「さっきはごめんね」と小さく言った。
「ペンギンさんのブログ、どんどん見て下さい。それで面白い育児ネタを見つけたら、私にも教えて」
 こうして、夫婦二人でブログの読者になった。その頃から二人にとって、仕事と育児と家事のちょうどいい分担が作られていった。星羅は二歳になり、三歳になり、その時々で想像も出来ないような問題と、得がたく素晴らしい瞬間を無数に巻き起こしながら大きくなった。


続きは5月17日(月)更新の予定です。


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。「花に眩む」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』を2012年に刊行。近著は『くちなし』『不在』『珠玉』『森があふれる』『さいはての家』『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』など。

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