【試し読み】ひきなみ #1 |千早 茜
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【試し読み】ひきなみ #1 |千早 茜

千早 茜さんの『ひきなみ』(角川書店)が、4月30日に発売します。刊行記念として、本作の魅力がたっぷり詰まった冒頭を大公開!
ぜひお楽しみください。

【あらすじ】
私たちずっと一緒だと思っていたのに。
彼女は脱獄犯の男と、島から消えた。

小学校最後の年を過ごした島で、葉は真以に出会った。からかいから救ってくれたことを機に真以に心を寄せる葉だったが、ある日真以は島に逃げ込んだ脱獄犯の男と一緒に島から逃げ出し、姿を消してしまう。裏切られたと感じた葉は母に連れられ東京へ戻るが、大人になって会社で日々受けるハラスメントに身も心も限界を迎える中、ある陶芸工房のHPで再び真以を見つける。たまらず会いに行った葉は、真以があの事件で深く傷ついていることを知り――。女であることに縛られ傷つきながら、女になりゆく体を抱えた2人の少女。大人になった彼女たちが選んだ道とは。


第一部 海

 特急電車に揺られながら夢をみていた。
 なんの夢だったかはおぼえていない。けれど、確かに夢をみていた。ゆらゆらと揺れながら、目が覚めてしまえばこの夢は消えてしまうと、うっすら思いながら夢の中にいた。
 頭ではなく、体でみるような夢だった。とろりとした、あたたかい水に浸かっているみたいな心地好い感触を、いまだに肌がおぼえている。
 覚めてしまうのが嫌だった。哀しみの念すら抱きながら浮上するように目覚め、薄目をあけると、自分のものじゃないような涙がこぼれた。
 瞬間、まぶしい、と思った。
 私はシートに一人で、かたわらの窓には海があった。
 びゅんびゅんと過ぎていく景色の中で、空と青緑色の海だけが貼りつけたように動かない。春休みだというのに車内はひと気がなく、肌寒かった。
 そっと電車の窓に顔を近づけると、海がぎらっと太陽を反射して、目の奥が痛んだ。ガラス窓から日差しのあたたかさを感じた。
「お母さん、海」
 膝の上に置いた新品の携帯電話に話しかける。にぶい銀色の機械はしんと黙ったままだ。電波をしめす棒は一本と二本のあいだをいったりきたりしている。アンテナを伸ばしてみても変わらない。赤い電話のマークに親指の腹を押しつける。マッチ箱ほどの画面がぱっと緑色に光って、慌てて電源を切った。朝から何度もくり返した動作だった。一緒に行けない代わりにと母が与えてくれた機械は、なんの安心もくれなかった。
 顔をあげて海に目をこらした。想像していた海とは少し違うように思えた。ちょっと考えて、水平線がないからだと気づく。遠くのほうにでこぼこと森のようなものが浮かんでいる。
 やがて、島だと気づいた。でも、自分がこれから向かう島がどれかわからなかった。
 どんどん海は近くなり、窓ガラスの下半分を埋めていく。
 青緑色の海は底が見えなかった。太陽の光をたたえながら、うねるように動いていた。お風呂やプールの水とはまったく違うものだと知った。
 ――あんな穏やかな海はない。
 母の言葉を思いだす。とてもそうは見えない。
 これから私は、母の生まれ育った島で祖父母と暮らさねばならなかった。小学校最後の年に転校をすることになるとは思わず泣いてみせると、三ヶ月だけと母は約束してくれた。七月ね、七月に迎えにきてね、と私はわざとぐずぐず念を押した。駄々をこねるつもりはなかった。ただ、自分の心細さをアピールするために泣いた。母が私を忘れないように。母は困ったように笑って、島の良いところを並べあげた。
 そんなやりとりがずいぶん遠いものに感じられた。自分はいま、どんな顔も作らなくていいのだと思った。そのことに対するうしろめたさも寂しさも、これからの不安も、すべてが遠く、青緑色の海を前にして私の心は奇妙なくらい凪いでいた。自分が一人だということさえ、一瞬、忘れていた。
 夢であそこにいた気がした。眠りの中で、私はあの海の一部だったのかもしれない。
 喉がきゅっと苦しくなった。感じたことのない気持ちでいっぱいになりながら窓の外を見つめた。海はとぎれることなく続いた。
 それが、初めて一人で海を見た記憶。


     


 電車を降りると、帽子をかぶったおばあさんがベンチから立ちあがった。誰もいないホームの端から、がに股で近寄ってくる。祖母に見えるが、違うような気もした。祖母には小学校の入学式に来てくれたときに会ったのが最後だった。
 祖母らしきおばあさんは迷いなく私の前で足を止めた。ぎこちなく挨拶をしながら、鼻の下にあったはずの大きな黒子を探すが、深くかぶった帽子のつばが影をつくっていてよく見えない。帽子についた紐が、たるんだ顎に食い込んで窮屈そうだ。
「葉ちゃん」
 しわがれた声が私の名を呼び、「ようきた、ようきた」と肩から腕を撫でまわされる。「おおきなったのう」「洋子によう似てきた」と目をしわしわにしている。もじもじしているうちに祖母は私のスポーツバッグを担いで歩きだした。
「洋子が心配しとった」
「え」とポケットから携帯電話をだす。画面には時間しかでていない。
「そりゃ、なんじゃあ」
 祖母はちょっと立ち止まってのぞき込むと、「こりゃあ、わしにはいたしいで」とざらざらした声で笑った。「え、なんですか」と聞き返したが、わしわしと歩いていく。言葉がよくわからない。耳も遠いのかもしれない。
 不安な気持ちで後ろについていく。駅前はがらんとして、道路はなんとなく赤茶けていた。
信号を渡ると急にひらけて、あちこちに桟橋が見えた。大きなフェリーが泊まっていて、車が吸い込まれていく。
 祖母は桟橋のそばの四角いプレハブの建物に入った。看板は縁がぼろぼろで、字がかすれていて読めない。かろうじて青い船のイラストだけわかる。中はベンチと自動販売機の並ぶ待合所になっていた。
 祖母は私に切符を買い、自分は定期のようなものを見せて、フェリーとは違う桟橋へ向かった。私が立ち止まると、すぐにふり返り「そっちの客船じゃのうて、こっちの高速船じゃ」と大声をあげて手招きしてきた。フェリーに乗りたかったわけではなく、自動販売機で飲み物を買いたかったのだけど、恥ずかしくなって言いだせなかった。
 桟橋は道路よりもっと赤茶けていて、ところどころ濡れていた。あちこちから突きでたずんぐりした杭のようなものは、巻きついた太い鎖ごとペンキをかぶったように錆びていて気味が悪かった。
 桟橋にくっつくようにしてバスくらいの大きさの船があった。船は平らで背が低かった。海面ぎりぎりの客室にもぐり込むようにして人が乗っていく。祖母と変わらないような老人がほとんどだった。船が揺れるたび、きいきいと擦れた高い音が鳴る。大きな動物が吠えるような音が響いて、フェリーがゆっくりと動きだした。青緑の水がフェリーのまわりで白い波になる。
海をすべる光がぎらぎらと目をさす。
「葉ちゃん、どしたの」
 祖母が私をのぞき込んだ。
「……水がいっぱいで、まぶしくて」
 つぶやいて、ぽかんとした祖母の顔で我にかえった。海なんだから水がいっぱいあるのは当たり前だ。かっと顔が熱くなる。
 祖母は口をあけて笑った。
「東京の子は――」
 その後の言葉はうまく聞き取れなかった。けれど、変なことを言う、と笑われたのだとわかった。そういう笑い顔を見たことがあった。祖母の口の中は歯がばらばらで、父がよく飲んでいる胃薬の匂いがした。私は黙って、木の板を踏んで船に乗った。
 船の中はビニールのシートがずらっと並んでいた。空気はぬるくて、甘ったるい匂いがした。祖母が「食べ」とみかんを手渡してくる。見覚えのある小さなみかんだった。冬に段ボールに入ってやってくるたび、赤ちゃんみかん、と呼んで母に剝いてもらっていた皮の薄いみかん。祖父が島で育てていると聞いたことを思いだす。
 船が身震いするように揺れて、桟橋を離れていくのが低い窓から見えた。しばらくして、尻が一瞬浮いた感じがした。スピードがあがったのだとわかった。どっどっどっと揺れる。
「おばあちゃん、どれくらいかかるの?」
 聞くと、祖母は耳に手をあてて顔を近づけてきた。あの胃薬みたいな匂いを嗅いだら気持ちが悪くなりそうだったので、みかんと携帯電話を手に立ちあがった。
 船室の段をあがってドアを開けると、船の後ろがひらけていた。ロープやボールみたいなものが転がっていて、両側に二人がけのベンチのようなものと手すりがある。
 湿った重い風が吹きつけてきた。船のエンジン音が体に響くほど大きい。揺れで足元がぐにゃぐにゃした。よろめきながら一歩踏みだすと携帯電話が落ちて、拾おうとした拍子にしりもちをついた。短く悲鳴をあげる。
 誰もいないと思っていたのに、ぱっとふり返った人がいた。
 長い黒髪が風に踊っていた。大きすぎる地味な色のウィンドブレーカーに、まっすぐな細い脚。少しもぐらつくことなくやってくると、手を差しだしてきた。目が合った。
 黒い目だった。習字の筆でしゅっと書いたような眉。つかんだ手は冷たかったけれど、私と同じくらいの大きさだった。
 その子はちらっと床を見て「香姫」とつぶやき、みかんを拾った。そういえば、そういう名前のみかんだった。風と船の音で声はほとんど聞こえなかったのに、言葉が頭に伝わった。まっすぐこちらを見てくるからだろうか。
 でも、ちっとも笑わない。私の手にみかんをのせると、きびすを返して船の縁に腕をかけた。ほんの少し背伸びをしている。長い髪がばさばさと風になびいた。横顔はもう私を見ていなかった。

次回は5月1日更新です。

千早 茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞も受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞。著書に『男ともだち』『神様の暇つぶし』『さんかく』『透明な夜の香り』や『犬も食わない』(尾崎世界観との共著)、『鳥籠の小娘』(絵・宇野亞喜良)、エッセイ集『わるい食べもの』など。


ひきなみカバー

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