【連載】わたれない #5 | 彩瀬まる
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【連載】わたれない #5 | 彩瀬まる

雑誌「その境界を越えてゆけ」にて掲載された、彩瀬まるさんの「わたれない」を特別に一挙公開します。いよいよ最終回!

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あらすじ
会社を辞め、育児をメインで担当することになった暁彦。
“ママじゃない”ことに悩むが、あるブログに出会い……。

 男性は照れくさそうに首の裏を搔き、会釈をしてから向かいの席に座った。水を運んできた店員にそれぞれドリンクと料理を頼み、改めて顔を合わせる。
「てっきり、女性の方だと」
「あー、よく言われます」
「確かに母親だとはブログのどこにも書いてなかったな……こっちに思い込みがあったってことですね」
「まあ、あまり分からないように書いてるんで」
「なにか理由があるんですか?」
「シングルファザーだって公言して、育児ブログやってた時もあったんですけど、なんとなくこう……そういう枠組みでしか読んでもらえなくなる、というか。パパだと分からないかも知れないけど、とか、パパだとこういうことは気づかないだろうから言いますね、みたいな、決めつけに近いコメントも多かったんですよ。それでもう、めんどくさくなって。ごちゃごちゃ余計な色眼鏡をかけずに、我が家の面白おかしい日常と、俺の卓越した育児スキルを見てくれ! そしていいねしてくれ! って、承認欲求が爆発しました」
 ペンギンさんは悪戯を仕掛けた子供のようにニヤニヤと笑った。暁彦も、つられて笑ってしまう。
「すごいですよね、育児スキル。めちゃくちゃ参考になりました」
「いやー、メッセージもらってこっちこそ嬉しかったです。ありがとうございます」
 オムライスが二つ、運ばれてきた。チキンライスと半熟卵のあいだにチーズがたっぷり敷かれたそれにスプーンを差し込みながら、暁彦は淡い違和感を持った。自分は、ずいぶん迷いなくペンギンさんを「ママ」だと思っていた。それにはなにか、決定的な理由があったようにも思うのだが。
「ん? おっぱいあげてませんでした?」
 大きく口を開け、スプーン山盛りにしたオムライスを頰ばったペンギンさんは、一瞬なにを言われたのか分からないとばかりにまばたきをした。首を傾け、咀嚼しながら考え込む。
「……あー、はいはいおっぱいあげてたっていうか、おっぱい吸わせたことはありましたね。そんなんブログに書いたっけ。……あ、書いてら」
 スマホの画面を確認し、ペンギンさんは小刻みに頷いた。子供に父親の乳を吸わせた、ということに暁彦は軽い衝撃を受けた。そんなこと、考えたこともなかったからだ。
「なんでまた、そんな」
「そりゃもちろん、泣き止まなかったからですよ」
 ペンギンさんはけろりとした顔で答えた。
「うちの下の息子がかなり過敏なタイプで……あの子が生後三ヶ月ぐらいの時に奥さんが育児ノイローゼというか、うつみたいな感じで実家に帰っちゃったんですね。そこからは仕事を調整して、俺が一人で育て始めたんですけど。まあとにかく寝ないし、泣くし、抱っこじゃないとダメだしで、すごくて。とにかく寝たいなーイライラしてやばいなーって焦って、ママたちがやってる添い乳ってのを一時期試しました」
「添い乳?」
「母親も子供も並んで寝転がって、そのまま授乳するやり方ですね。これだと子供はおっぱいを吸っているから泣かないし、母親も体を休められて、楽らしいです」
「はあ……」
 やっぱりあると便利だなーおっぱい、と思う。ペンギンさんはのんびりとした口調で続けた。
「乳頭保護器っていう、乳首が小さいとか陥没してるとかで授乳がしにくい人が使う、シリコン製の器具があるんですけど、それを乳首に貼って試しました。そしたら下のチビがうまくくわえてくれて、こりゃいいわって思ったんですけど……なんかダメだったんですよね。寝ながら体を触られ続けるのに、俺はストレスを感じるたちだったみたいで。余計にイライラして、すぐやめました」
「なるほど」
 経緯を聞くと、それほど意外には感じなかった。暁彦もまた、他者に上手く子育ての助けを求められずに疲労がピークに達し、ぐらり、と火のような苛立ちが込み上げる危険な瞬間を覚えている。苛立ちを子供にぶつけてしまうことを回避出来るなら、自分も乳首ぐらいいくらでも吸わせただろう。
 暁彦はふと、ペンギンさんがこちらの目を見ていることに気づいた。自分の言っていることが理解されているか、確認するような目つきだった。いやいや分かりますよ、と伝えるつもりで浅く頷く。ペンギンさんは苦笑して、小さく頷き返した。
「そういうわけで、その後はひたすら国内外の育児グッズを買いまくって、片っ端から試しました。他にもベビーマッサージとか音楽療法とか手遊びとか……下の息子が落ち着くなら、なんでもよかった。そうして集めた情報を整理がてらブログで紹介していったら、ありがたいことに俺やアキさんみたいなパパだけでなく、ママたちからもすごく支持してもらえるようになったんです。今度、ブログの内容をまとめた本が出るんですよ。『ペンギンデイズ』っていうの。一冊送るんで、読んで下さい」
 ありがとうと礼を述べ、コーヒーを飲む。暁彦はふと、自分がとても久しぶりに、家庭外の空間で受け入れられているのを感じた。
「さっき、実は、えらい目に遭って」
 リラックスし、口が柔らかくなり、だから言えた。橋と、その向こうの町を信じることは出来なかったけれど、この二人がけテーブルの周囲の空間を、暁彦は信頼することが出来た。
 暁彦が、町内会長に川向かいの町の事件の容疑者扱いをされた旨を打ち明けると、ペンギンさんは驚きを露わに目を丸くした。
「ちょっと失礼」
 断りながら腰を浮かせ、暁彦の頭部に手を伸ばしてくる。側頭部の髪の一房の、根本近くを指で挟み、ぐ、と引いた。
「イッテ! なんで」
 暁彦は体を仰け反らせ、引っぱられた頭皮を手で庇った。すぐに髪をつかんだ指を放し、ペンギンさんは笑いながら座り直した。
「あー、アキさん犯人じゃないですね」
「ええ?」
「坊主なんですよ、犯人。逃走中にカツラを被ったら分からなくなるし、混乱を招きそうで報道にはその情報が載らなかったんですね。俺は上の息子が被害に遭った児童と同じ小学校に通ってるんで、保護者会からのメールでそれは知ってました。たぶん、鷲町の保護者の大半は知ってると思いますよ」
 暁彦はぽかんと口を開いた。中途半端な情報を元に、乱暴な詮索が行われるこちら側より、橋を渡ってしまった方が、自分にとっては安全だったのか。
 食事を終えて、暁彦は咲喜に託された絵はがきと、ギフト包装した子供向けTシャツをペンギンさんに渡した。Tシャツを取り出したペンギンさんは、気合いの入ったオニヤンマの刺繡に目を見張り、こんなの俺が着たいです、と笑ってくれた。
 会計を済ませて店を出る。すると、今日一日でずいぶん見慣れたオレンジ色のトンボが数匹、風に乗って目の前を通り過ぎた。
「ウスバキトンボですね。ああもう、だいぶ羽がぼろぼろになってら」
 ペンギンさんが呟いた。彼はずいぶん目がいいようだ。
「ウスバキトンボって群れで北上するの、アキさん知ってますか」
「知ってます。死滅回遊するんでしょう?」
 毎年春から夏に世界の熱帯および温帯地域で発生するウスバキトンボは、群れを成して世代交代を繰り返しながら北上する。しかしそもそも種として寒さに弱いため、北上した先に定着することはなく、群れは死滅する。こうした繁殖に寄与しない生息地の移動は、死滅回遊と呼ばれる。
 初めてウスバキトンボの渡りの習性を知った時は、まるで集団自殺でもしているように思えて胸がひんやりしたものだ。ペンギンさんはそうですそれ、と頷いた。
「無駄死にじゃないかって思ってたんですよ、俺も。でも、最近ふと思ったんです。こいつらは、環境が変わるのを期待してるんだなって」
「環境?」
「温暖化が進んで暖かい地域が増えたら、毎年毎年こんな集団自殺みたいな渡りをやっているこいつらの生息地は爆発的に増えます。馬鹿げた無茶をしているわけじゃなく、自分たちの生きやすい世界が来るのを信じて飛んでるんだ。けっこう、したたかですよ。そして、いずれは勝負に勝つだろう」
「ふーん……」
 また一匹、薄いレースの羽を震わせてやって来る。暁彦はそれを目で追った。帰ったら、とびきり素敵なレースを探して、コッペくん向けのTシャツの袖に縫いつけよう。レースは羽だから、いつか、かつての自分のような男の子の元に届き、彼と一緒に飛ぶかもしれない。想像も出来ないような遠い場所へ。
 オレンジ色の華奢なトンボはすらりすらりと滑空し、川の向こうへ姿を消した。


おわり


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。「花に眩む」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』を2012年に刊行。近著は『くちなし』『不在』『珠玉』『森があふれる』『さいはての家』『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』など。

彩瀬まる『不在』(角川文庫)大好評発売中!

「家族」「男女」――安心できるけれど窮屈な、名付けられた関係性の中で、人はどう生きるのか。家族をうしない、恋人をうしない、依るべきものをなくした世界で、人はどう生きるのか。
いま、最も注目されている作家・彩瀬まるが、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る、野心的長篇小説。

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