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【連載】明日も一日きみを見てる 第17 回 | 角田光代

小説 野性時代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!
毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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世界じゅうが巻きこまれているこのコロナ騒ぎを、猫は知らない。
でも緊急事態宣言が解除されてみて気が付いた、
トトの変化とは……。

第17回 パンデミックと新技事件

 猫は未来を憂えることがないと言われている。時間の感覚が人間とは違うためだ。あらゆることにおいてネガティブで心配性で、くよくよしている私は猫のその点を見習いたいといつも思っている。トトがうちにきてからはトトのことも心配材料になった。トトがまだちいさいころは、外食をしていても時間が気になり、「トトが帰りを待ちわびているのではないか」「捨てられたと思っているのではないか」と暗い方向にばかり想像が進み、ひとり先に帰ったこともある。だから、猫は未来を憂えることがないらしいと知ったときは、救われた気分だった。トトにとって、私や家の人が「いる」と「いない」、それしかない。いないときはいないだけで、帰ってこなかったら……だの、事故に遭っていたら……だのと、猫は考えないし、悲観しないのだ。

 世界じゅうが巻きこまれているこのコロナ騒ぎも、猫は知らないか、関係ないと思っているだろう。猫もコロナに感染するとニュースで知ったときは驚愕したが、そんなニュースもきっとトトは知らない。私と家の人がもし二人とも感染して、どこかに隔離された場合どうするか、私たちは調べ、話し合っているが、トトはそれも知らない。感染予防対策の徹底は、トトのためでもあるのだけれど、それだってトトは知らない。

 何も知らないトトが唯一わかっているのは、「二人ともなんかこのごろいつも家にいる」ということだと思う。そう、私たちは以前に比べて、ずっと多くの時間、家にいる。
 以前の私は出張も多く、それ以上に夜の会食がたいへんに多かった。友人との飲み会もあれば、編集者さんたちとの打ち合わせや、連載開始を控えた発破掛けや、本ができた打ち上げや、暑気払いや、新年会忘年会や、なんやかんやで集まって飲んでいた。家での食事は週に二、三回。共通の友人が多いので、飲み会は家の人もいっしょのことが多く、それにくわえて家の人は自主缶詰期間がある。舞台や映画の音楽制作に入ると仕事場にこもって、十日とか二週間に一回、風呂に入るために家に帰ってくるだけ。

 そんな二人が、そろって家にいる。ずーっといる。二人とも仕事場に出かけて昼はいないが、夜になると毎日帰ってくる。私は午後五時半に、家の人は八時過ぎに。
 トトはもともと、私たち二人がそろっている状態が好きだった。出張や自主缶詰のとき、私たちは予定をやりくりし、どちらかがかならず帰宅してトトと過ごすようにしていたけれど、そんなふうにひとりでトトとともにいるときと、二人そろっているときとでは、トトの安定感が格段に違う。顔つきや眠りの深さでそれがわかる。だからパンデミック以降、トトはずーっと安定している。

 いや、実際は、私はそんなこともよく考えなかった。緊急事態宣言が出て、飲食店が酒類の提供をできなくなったり、午後八時に閉まったり、ときには休業要請が出たりしているから、家で飲むようになった。いくつかの出版社では会食禁止になり、禁止にならずとも、やっぱりみんなで飲みましょうということにはならない。二〇二〇年の出張はほとんどすべて中止か延期になった。二〇二一年は、そもそも出張仕事の依頼が以前のようにはなくなった。それらすべて、やむなくそうなっているだけで、私自身はなんだかつまらない毎日だなあと思いながら暮らしていて、トトの様子がどうかなどとは考えなかった。

 十月に緊急事態宣言が解除され、十月九日にひさしぶりに東京のコロナ感染者数は百人を下まわった。状況によっては中止もあり得た出張仕事が決行確実になった。十一月、福岡の図書館に招かれて、私は本当に久しぶりに飛行機に乗った。
 福岡に一泊した夜、家の人からメールがきた。トトが私をさがしている、とある。家のなかをうろうろとさがしてまわり、トイレの前で待ってみたりしている、という。
 そのメールを読んで私はようやく気づいたのだ。家にずーっと二人ともいる状態に、トトが慣れきっていたのだということに。トイレの前で待ってみたり、という部分で私の涙腺は決壊しそうになり、すぐにでも帰りたかったが、猫は未来を憂えることがない、と自身に言い聞かせて耐えた。

 その出張以後、東京の感染者数はぐっと減って、一桁台の日もある。以前のように会食続きということはないが、やはり週に一、二度は外食の機会があるようになった。パンデミック以前と変わったなと思うのは、会食の開始時間が夕方五時や六時と早まって、そのぶん、解散も早い時間になったことだ。八時、九時にはお開きで、二次会は皆無。
 あるとき家の人と二人で飲み会に参加し、めずらしく帰りが十一時近くになった。これもまた、パンデミック以前だったら、むしろ早い時間の帰宅である。家の敷地内に入るなり、「わーっ」と猫の声がする。「わーっ、わーっ」と家のなかから響くトトの声は、あきらかに怒っている。鍵を開けるあいだも、ドアの真ん前でわーわーと怒り続けている。その声が、私にはもう人の言葉に聞こえる。どこいってんだよー! おっそいよーもーいい気になるんじゃないよ!

「怒ってる」「トトちゃんすっごい怒ってる」と私たちはひそひそ言い合い、これもまた、ようやく気づいたのだ。二人してこんなに帰りが遅いなんて、この一年半ほど、なかったということに。

 最近では、私がトイレに入るとトトが野太い声で鳴くことが増えた。ドアを開けるとトイレの真ん前に座っている。私の姿を見て「いたのか」とでも言うように、すっとその場を離れる。

 本を読んでいるとトトが膝にのってくるのは冬場には多いのだが、このごろは、前脚で私の片腕をおさえこむようにして横になり、そのまま深く寝入る。前脚にものすごい体重を掛けているので、おさえこまれた腕はだんだんしびれてくるし、コップをとるとかスマートフォンをとるとか、動かしたいときもある。そーっとトトの前脚から腕をはずすと、トトはかならず起きて、ぎろりと私をにらみつけてくる。朝は朝で、やはり前脚で、家の人の足をおさえこんで寝ている。この「おさえこみ」は、コロナを知らないトトが、コロナ禍に覚えた新技のようである。

つづく

角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業などで読売文学賞受賞。

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