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「見えないお客さんもいってらっしゃい」。娘の一言が頭に残る。 「骨灰」#22

小説 野性時代

得体の知れない怪異と不条理が襲いくる――。
鬼才が放つ、戦慄の長編ホラー。

天地明察』『十二人の死にたい子どもたち』「マルドゥック」シリーズ。
ジャンルを超越しベストセラーを生み出す鬼才・冲方丁が綴る長編ホラー小説「骨灰」(こっぱい)。『小説 野性時代』2021年9月号から満を持してスタートした連載を、順次配信していきます。(連載の続きがすぐに読みたい方は本誌をぜひ!)
建設現場で遭遇する不可解な事象、それをきっかけに身の回りに忍び寄る怪異、侵食されていく現実――。《からからに乾いた》戦慄のホラー小説をぜひお楽しみください。

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 光弘は通りを渡ろうとした足を止めて振り返った。
「え?」
 だが咲恵はこちらに背を向け、同じ帽子をかぶった子どもらがいるほうへ行ってしまった。
 光弘はしばしその場に佇んだが、すぐにかぶりを振り、自分の両肩の辺りを交互に見て苦笑した。見えないお客さんか。朝の陽光が降り注ぎ、大勢が行き交う通りでそのフレーズを思い出したところで、何の不安も感じなかった。
 妙なことを覚えちゃったな。子どもというのは、ときどき見えない何かについて言及したがるものだ。それで美世子を怖がらせなければいいが。
 光弘はそれ以上考えずに駅の階段を下り、改札に向かおうとしたが、ふと思い直してコンビニに向かい、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを買った。なぜそうするのか深く考えなかった。ただ、鞄の中に一本入れておかないと落ち着かない気にさせられていた。就寝時にベッドサイドに飲み水を置いておくことが習慣になりそうだという予感があったが、これについても深く考えなかった。
 渋谷駅で降り、むわっとする空気が漂う構内を、日々変化する動線に従い、縦横に動き回る人々の間を縫って進んだ。駅を出ると、次に待っているのは、けっこうな勾配の坂だ。国道沿いに、あかさかあおやま、渋谷と、坂、山、谷が並んでいるのはだてではない。
 渋谷駅の東西にはみやますざかどうげんざかがあり、一帯は坂だらけだ。谷底の川に沿って電車を開通させるか、さもなくばトンネルを掘るしかなかった理由がよくわかる。
 せっせと坂をのぼり、本社のビルのロビーに入ってようやくエアコンが利いた涼しい空気に包まれた。通勤だけでも、ちょっとした運動だ。エレベーターの中で息を整えながら、ジムに通う金が浮いて何よりだと思った。
 席に鞄を置くと、すぐに上司のたけなかが声をかけてきた。
「病院で診てもらったか? 体調は?」
「はい。おかげさまで問題ありません」
 竹中がうなずいた。光弘の声が元に戻ったことに安心したのだろう。
「今日、例の工務店に聴取に行くんだろう?」
「ええ。アポは取れてます」
「くれぐれも注意しろ。放火の件もある」
 竹中が、他の者に聞かれぬよう、声をひそめて釘を刺した。
「わかってます」
 光弘も顔を引き締めた。
「入室前に連絡をくれ。一時間後に、こっちから電話をする。着信音が鳴るようにしておけよ」
 何かあったとき、社員を孤立させないための予防策だ。
 どこの業界でもそうかもしれないが、こと建設に関しては、土地の取引が絡むため、どういった個人や団体が背後にいるかわからないことが多い。ときには詐欺や恐喝など犯罪行為に抵抗のない集団に出くわすこともある。あらかじめ相手が暴力団やその傘下の組織であることがわかっていれば、過去の傾向から対策を練ることもできるが、その場の気分に任せて突発的に犯罪行為に走る人間もいるのだ。交渉の席で、相手から突然、言い分が気にくわないなどと言われ、携帯電話を取り上げられて監禁同然の目に遭うことだってある──というのが、竹中の経験から来る忠告だった。
「わかりました。ありがとうございます」
「路上生活者の支援団体のほうは?」
「区内の主立ったところとはアポが取れてますので、片っ端から回ります」
「頼む。月末の株主総会の前に、事件を終息させておきたい」
 光弘も同感だった。東棟の建設は、再開発の要の一つであり、どんな形でもを帯びさせてはならない。徹底的に守り通すというのがIR危機管理チームの使命だった。
 その重要な仕事を任されているという自信と昂揚感を抱きながら、光弘はチーム・ミーティングを終えると、荷物を整えて本社を出た。

つづく


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