【連載】明日も一日きみを見てる 第2回 | 角田光代
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【連載】明日も一日きみを見てる 第2回 | 角田光代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!
毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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蜘蛛、てんとう虫、羽虫、そして誰もが苦手なあの黒い虫。
新しいおうちで、たくさんの虫に出会ったトトは、あるとき聞いたことのない鳴き声をあげて……。

第2回 自信と誇りの虫事件

 気密性、という言葉を使ったことはほとんどないどころか、意識したこともないくらいだったが、引っ越してのち、私は幾度も幾度も「気密性……」とつぶやくことになった。
 以前住んでいた集合住宅の気密性はものすごく高かった。換気扇をまわしていると、玄関ドアを開けるのにふんばらねばならないくらいだった。十階ということもあるが、隙間がないので虫なんてほとんど入ってこなかった。だれもが苦手な黒い虫を見たのは十二年間で二度くらい。ときどき羽虫がいるくらい。その羽虫を見つけると、トトはよく鳴いた。「虫ー、虫がいるー」と知らせてくれるので、「トトちゃん、とって!」と私たちは言っていた。ときどきは家の人がトトを抱っこして、虫に近づけ、「ほら、とったらいいよ」と言っていた。それでもトトは前足をふりまわすだけで、虫がとれない。抱っこされて虫に近づけてもらって、それでもとれない猫……、と私は少しばかりトトに同情めいた気持ちを抱いていた。

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 地上に近い暮らしになってびっくりしたのは、虫の多さだ。目に見える隙間があるわけでもないのに、どこからか虫が入ってくる。いろんなサイズの蜘蛛、てんとう虫、羽虫、そして例の黒い虫。
 虫を見つけると、トトはやっぱり鳴いて知らせる。「虫がいるー」というトトの声は、以前よりずっと増えた。あんまり多いので、私たちも以前のようにいちいち「とってー」と言うことはなくなり、聞き流すようになってしまった。
 あるとき、「虫がいるー」といつものように鳴いていたトトが、しばしの沈黙のあと、聞いたことのない野太い声で「ヌオオオオー」と鳴き、私と家の人は何ごとかと顔を見合わせた。どうしたトト、どこにいるの? と立ち上がりかけたとき、「ヌオオオオー」と野太く鳴きながらトトが私たちの元にやってきた。
「あっ、なんかくわえてる!」と家の人。
 トトはくわえていたものをぽとりと落とすと、得意げに私たちを見上げる。
 虫である。虫をとったのだ。
「わートト、すごい、すごーい! 虫をとったんだねえ!」と、言わなければならないのだろうと思って二人で褒めそやした。得意げな顔のトトが悠然とその場を立ち去ってから、瀕死の虫をそっと拾って外に放した。
 今までずっと、「とって」「とって」と言われ続けても虫がとれなかったことが、トトのなかにも何かしらの鬱屈としてあったのだろう。ところが自分にも虫がとれた。「ヌオオオオー」という野太い声は、自信と誇り、さらには何かをくわえていて口を開けず、うなり声に近くなった故の野太さなのだろう。

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 頻繁にではないが、この耳慣れない野太い声を、トトはときどき出すようになった。「ヌオオオオー」が聞こえてくると、私たちは身構える。「虫だ」「虫をとったね」「くるよ」「見せにくる」とひそひそ言い合っていると、トトはしゃんしゃんしゃんと走ってきて、ぽとりと床に何かを落とす。私たちは褒めちぎり、そのあとでそっと虫を外に放す。
 何回か続くうち、私はトトのこの声を少しばかり恐怖するようになった。羽虫くらいならいいが、もっと大きなサイズの虫だったらこわい。黒いアレだったらどうしたらいいのか。

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 ある日のこと。寝ていたところ、トトの野太い声が響いてきた。深夜である。ああ、何か捕まえたんだね、と思いながらも寝ていたのだが、トトは鳴き止まない。「ヌオオオオー」「ンヌゥオオオオオー」とドスのきいた声で鳴き続けている。「見ろやー!」「見にこいやー!」と聞こえる。まず家の人がむっくりと起き、しかたなく私も起きた。トトちゃん……と言いながら、声の元にいくと、トトは私たち二人がそろったのを確認して、何かをぽとりと落とした。でかい。虫じゃない。「ひっ」と思わず声が出る。
 ちいさなやもりだった。捕まえられて動揺した様子だが元気である。家の人がそっと捕まえて外に放った。トトにしてみれば、はじめての大物捕獲を知らせずにはいられなかったのだろう。
 さらにその後、おそれていたことが起きてしまった。テーブルの隅でトトが跳ねている。これは何か見つけたなと私にもわかる動きである。そっと近づくと、ああ、すべての人がおそれ嫌っているあの黒い虫ではないか……、これをトトがくわえたらひとたまりもない、足下に落とされても嫌だし、トトの口に触れるのも何か嫌だ……、どうするべきか一瞬悩んだところ、トトが黒い虫を前足でとらえようとし、運のいいことに黒い虫はテーブルの下に置いてあるゴミ箱のなかにすとりと落ちた。素早くゴミ箱の口を新聞紙で塞ぎ、その上に重しを置いて黒い虫を閉じこめた。新聞紙の隙間から殺虫剤を一吹きすればOKなのだが、あいにく殺虫剤が切れている。しかも隙間を作った瞬間に飛び出てくる可能性もある。これはこのままにして、家の人が帰宅したらなんとかしてもらおう。と画策する私を、トトがじっとりと見ている。「せっかく見つけたのに……」と、じっとりした視線から聞こえてくる。「何してくれてんの……」と声なき声。

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 しばらくのちに家の人が帰ってきた。驚いたことに、トトは細く鳴きながらまっしぐらに家の人の元に走っていくではないか。家に入ってくる人の足下で鳴きながらつきまとっている。「何なに、トトちゃんどうしたの」といつもと異なるトトの様子に家の人も驚いて訊いている。
 かくかくしかじかで、と重しを置いたゴミ箱を指さすと、家の人も納得する。せっかくとろうとしたのに邪魔されてむかついたと、言いつけていたのである。
 なんだか引っ越してから、トトは前よりおしゃべりになったし、そのおしゃべりもわかりやすくなった。「ヌオオオオー」は今もって私の恐怖であり続けている。

                               つづく

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次回の更新は6月22日(火)の予定です。


角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業で読売文学賞など受賞。


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