【連載】わたれない #4 | 彩瀬まる
見出し画像

【連載】わたれない #4 | 彩瀬まる

雑誌「その境界を越えてゆけ」にて掲載された、彩瀬まるさんの「わたれない」を特別に一挙公開! 毎週月曜日更新の予定です。

◀最初へ

あらすじ
会社を辞め、育児をメインで担当することになった暁彦。
“ママじゃない”ことに悩むが、あるブログに出会い……。

 星羅が四歳になった春先に、いつものようにネットショップから注文が入った。
 penguin-kouteiというユーザー名について、初めはなんとも思わなかった。オーダーは、左胸に青いトンボのビーズ刺繡を入れたコッペくん及びロールちゃん向けのTシャツと、お尻にフェルトで作った恐竜の尻尾をつけたカーキ色の半ズボンだった。いつも通りに梱包し、発送した。宛先が隣町だったので、これなら郵送するより徒歩で持って行った方が早いな、と少し笑った。
 数日後、ペンギンさんのブログに、保育園の友達と一緒に人形遊びをするチビペンギンくんのイラストを添えた記事が投稿された。
 ペンギンさんの下の息子を示すのだろう、グレーの羽毛に覆われたチビペンギンくんの膝には、コッペくんが座っていた。
 トンボのTシャツを着て、恐竜の尻尾付き半ズボンを穿いた、コッペくんが。

 公園を出てしばらく道沿いに歩くと、秋空を映して白っぽく光る川が目の前に現れた。
 川幅は広く、百メートルくらいはありそうだ。下流の方向に若草色の塗装が施されたコンクリート製の橋が見える。この辺りは水鳥が多く飛来するせいか、橋の側面には羽を広げたたくさんの鳥のイラストが向きを揃えて描かれていた。まるで連なる鳥の背で、もう一つ橋を作っているかのような趣がある。
 暁彦は川の向こうに目を向ける。雰囲気はこちらの町とほとんど変わらない。コンビニがあり、ガソリンスタンドがあり、中学校がある。なんの変哲もない郊外の町だ。なにか事故でもあったのか、パトカーが通りを行き来している。あちらに、ペンギンさんが住んでいる。
 トンボのTシャツと恐竜の半ズボンのあとも、ペンギンさんからはたびたび注文が入った。何日に発送いたします、ありがとうございます、などのシンプルなやりとりをしてブログを見に行くと、チビペンギンくんが真面目にコッペくんの着せ替えをしている様子がアップされている。どうやらチビペンギンくんには仲の良い女の子が二人いて、彼女らが家に遊びに来た際にお人形を持っていたのを見て、コッペくんを欲しがったらしい。
 四回目の注文を受けた際、暁彦はペンギンさんに、実は数年前からブログの読者であることを打ち明けるメッセージを送った。育児について相談出来る人が周りにおらず、とても参考になったこと、今でも夫婦で愛読していることを綴ったところ、ペンギンさんはとても喜んでくれた。とんとん拍子で、隣町のイタリアンカフェで一緒にランチをする約束が交わされた。ペンギンさんは近所のデザイン会社に勤めており、昼の休憩時間に抜けてきてくれるという。
 ペンギンさんの下の息子は、いつもビーズ刺繡なりイラストなり、なにかしら昆虫の図案が入った服をコッペくんに買いたがる。特にトンボが好きなようだ。そこでサプライズプレゼントとして、裾にカラフルな糸でオニヤンマの刺繡を入れた息子くん向けのTシャツを用意した。
 流れの遅い川を横目に、ゆるやかに隆起した橋の中央へ向けて歩き出す。
 ポケットに差し込んでいたスマホが、メッセージの受信を告げるメロディを発した。なにかペンギンさん側にトラブルだろうか、と暁彦は画面を確認する。
 届いていたのは、保育園からの全体メールだった。普段は「明日は写真撮影なのでみなさん帽子と白いハイソックスを忘れないで下さい」だの「雨が降りそうなので運動会は延期します」だの細々とした通達に使われている。しかしそのメールは、これまでにない緊迫感を伝えた。

【注意喚起】正午頃、自宅で就寝していた鷲町在住の児童が、住居に侵入した不審な男に体を触られる事件が発生しました。犯人は現在も逃走中です。警察によると、男の年齢は三十代から四十代と見られ、口と鼻を覆う薄手の黒いマスクをつけ、大きな鞄を所持していて、逃走時に児童の服を持ち去ったということです。送迎の際は十分に注意して下さい。

 なんだこれは、と足が止まった。
 鷲町って、これから行こうとしている川向かいの町じゃないか。犯人が逃走したからパトカーがうろうろしていたのか。
 犯人は三、四十代で、大きな鞄を所持していて、児童の服を持ち去った?
 暁彦は頭のてっぺんから順に、みるみる血の気が引いていくのを感じた。これは、ちょっとまずくないか。客観的に見て、今の自分は犯人と誤認される条件を満たしすぎていないか。年代はぴったりで、大きなショルダーバッグを持ち、中にはペンギンさんにプレゼントするつもりの子供服も入っている。犯人はマスクをつけていたのだから、顔がきちんと確認されていないのかもしれない。これでもしも背格好まで似ていたら、冤罪を被ることにならないか。
 ああでも、待ち合わせの時間まであと十五分しかない。
 もしもあの時、あのタイミングでペンギンさんのブログに出会わなかったら、自分は苛立ちに負け、子育てを憎んでしまったかもしれない。そうならずにずっと星羅の素敵なところを感じながら育ててこられた。おっぱいがなくても幸せに育てられると確信出来たし、心のどこかでいつもあのブログを、お守りのように思っていた。
 そんな恩人に会う機会が失われる。
 橋の向こう側の通りを、またパトカーが走り抜けた。行くに行かれず、二度、三度と足踏みをした時だった。
「そこでなにをしているんだ」
 背後から、咎めるような声がかけられた。振り返ると、髪に白いものが混ざった恰幅のいい男性が立っていた。暁彦の父親よりさらに一回りは年が上だろう彼は、この辺りの土地を広く所有する地主で、現在の町内会長だ。朝夕と、登下校の時間には交通量の多い道に立ち、誘導灯を片手に子供たちの見守り活動を行っている。
 面倒な人に会った、と暁彦は胸が濁った。町内会長には過去に公園で撮影をしていた際に幾度か、暁彦からすれば不当で不快な干渉を受けた。こんな日中にふらふらしているようなお遊びは仕事じゃない、男が苦労から逃げるんじゃない、君は奥さんと子供を不幸にしている、人形ばかりいじくって自分でも情けないと思わないのか、自衛隊に入って性根を叩き直してもらえ、更生したら知り合いの会社を紹介してやる。そんな、なにひとつ的を射ていない無神経な言葉を幾度かけられたことか。
 彼が見守り活動を通じ、多くの父母から信頼されていることは理解している。こういう人が重石となって、コミュニティの秩序が保たれる側面はあるのだろう。
 しかし暁彦は、彼のような人を見ると本当に息が苦しくなった。レース、白いレース。俺はレースに触りたかった。脈絡もない思考がひらりと頭を過る。
 町内会長は険しい顔で近寄り、不躾に言った。
「鞄を開けなさい」
「……は?」
「いいから鞄を開けなさい、早く。隠しても無駄だぞ」
 彼が自分を、隣町の事件の容疑者扱いしていることはすぐに分かった。
 暁彦はバッグの持ち手を強く握り、町内会長を睨み付けると、くるりと踵を返して来た道を戻った。不快な場所から、一刻も早く立ち去りたかった。
「待ちなさい!」
 バッグを強い力でつかまれ、中身を意識する。コッペくん、ロールちゃん、手を尽くした人形服の数々。ペンギンさんへのプレゼント。精密で、強靭で、美しいものたち。レース、そうだ、レースだ。
 同じクラスの、あいちゃんのシャツの袖についていた、小さなレース。
 小さな薔薇と葉っぱが刺繡された、シンプルな綿レースだった。俺はそれが、とても好きだった。虫の羽みたいで、めちゃくちゃきれいだと思った。なにそれ、と聞いたら嬉しそうに、ママがつけてくれたの、と言われた。刺繡に触らせてもらっていると、幼稚園の先生が来て俺に言った。
「暁彦くんそういうのはね、あいちゃんかわいいって言ってあげるのよ」
 あいちゃんかわいい、と渡された言葉をそのまま言った。
 ありがとう、とあいちゃんはにっこり笑った。先生は、よく言えましたと頭を撫でてくれた。あいちゃんかわいい、ともう一度言った。みんなに褒められて嬉しかった。レースに対して沸き上がった気持ちを忘れた。だってあれは、あいちゃんのためのものだから。
 なんてことだろう。
 あれを忘れずに握り締めていたら、俺は今頃もっと、もっと、美しくて素晴らしい世界を見出せる人間に、なれていたかもしれないのに。
 嵐のように襲いくる虚脱感と共に、暁彦はバッグをつかむ手を振り払った。
「あなたはとても、失礼だ」
 町内会長は眉をひそめた。スマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始める。暁彦は自宅の方向へ走った。
 ウスバキトンボとすれ違った。北上する彼らは、迷いなく川へと飛んでいく。
 マンションの前まで戻り、荒い息を整えた。
 もう待ち合わせの時間だ。でも橋は渡れない。事態はややこしさを増している。それで、どうしよう。誤解を解く? ペンギンさんにランチの延期を申し出る? むしろ最寄りの警察署にでも出向いて、俺はやっていないと先に主張しておくべきか? なにから手をつければいい。様々なショックで、頭が回らない。混乱したまま、スマホを手に取った。かけられる相手は咲喜しか思い当たらない。
 出張中の妻は新幹線に乗っていた。隣町で事件が起こり、町内会長に疑いをかけられたこと。橋を渡れず、ペンギンさんに会えないでいること。起こった物事を思い浮かぶままに説明すると、咲喜は少し考えてから言った。
「落ち着きなよ。事件が発生した頃、暁ちゃんは公園で秋物の撮影をしてたんでしょう。なら、撮った画像のデータにその時刻が残ってる。言いがかりをつけられたら、それを見せればいい」
 言われてみれば、そうだ。少し呼吸が楽になる。咲喜は続けた。
「町内会長さんへは、改めて私も一緒に抗議をしに行く。あとー……誤解されそうで橋を渡りたくないんだよね? それならペンギンさんにこちらに来てもらったら?」
「どういうこと?」
「そのままだよ。橋なんて渡るのに十分もかからないんだから、仕事がおしちゃってとか理由をつけて、こっちの側のカフェに来てもらいなよ。別に、そんなに嫌なら無理して渡る必要ないよ、橋」
 妙に気が抜けた。
 ありがとう、と声をかけて通話を切る。続いて、ペンギンさんとやりとりしているSNSのアプリを立ち上げた。咲喜に提案された通り、直前の仕事が長引いてしまい、出来ればこちらの町で落ち合いたいとメッセージを送る。彼女はランチの相談をした際、「職場から車でひょいと抜けてくる」と書いていたので、橋を渡ってもらってもそれほど負担にはならないだろう。
 すぐにペンギンさんから、分かりましたー! とあっさりした返事が来た。普段から家族で利用しているナポリタンとオムライスがおいしいカフェを待ち合わせ場所に指定する。
 ランチタイムともあって店内には他にも客の姿があった。若いカップル、昼からビールを楽しんでいる常連らしき男性、高齢の婦人のランチ会。誰かを待っている様子の客は見当たらない。一通り見回し、暁彦は窓際の二人がけの席に座った。がらにもなく緊張する。
 チリン、とドアベルが鳴り、ふんわりとした藍色のコクーンワンピースを着た女性が入ってきた。体格がよく、明るさのあるしっかりとした顔つきをしている。ペンギンさんか、と腰を浮かせかけたが、彼女は暁彦の席を素通りして奥のカウンターで店員と話し始めた。どうやら店の関係者らしい。
 再びドアベルが鳴った。今度はライトグレーのパーカーにデニムを合わせた同年代の男性だった。違うな、と肩の力が抜ける。しかしソフトモヒカンにした髪をツンツン立てて、短く整えた顎鬚を生やしたその男性は、つかつかと暁彦のテーブルにやってきた。
「あのーもしかして、『Aki's style』のアキさんですか。ドールの服を作ってる……」
 暁彦は、まじまじと男性を見返した。
「はい……え、まさか」
「あ、どうも。ペンギンです。初めまして」


続きは5月24日(月)更新の予定です。


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。「花に眩む」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』を2012年に刊行。近著は『くちなし』『不在』『珠玉』『森があふれる』『さいはての家』『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』など。

彩瀬まる『不在』(角川文庫)大好評発売中!

「家族」「男女」――安心できるけれど窮屈な、名付けられた関係性の中で、人はどう生きるのか。家族をうしない、恋人をうしない、依るべきものをなくした世界で、人はどう生きるのか。
いま、最も注目されている作家・彩瀬まるが、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る、野心的長篇小説。

画像1

※書影をクリックすると詳細ページにとびます。

画像2

画像3


ありがとうございます!
今、最も面白い旬の小説が読める文芸誌! 月刊「小説 野性時代」の公式ページです。「小説 野性時代」に掲載中の人気作品の一部を、こちらでも特別公開していきます。詳しい情報はこちら https://www.kadokawa.co.jp/product/322101000604/