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またしても、あれが襲いかかってくる。 「骨灰」#19

小説 野性時代

得体の知れない怪異と不条理が襲いくる――。
鬼才が放つ、戦慄の長編ホラー。

天地明察』『十二人の死にたい子どもたち』「マルドゥック」シリーズ。
ジャンルを超越しベストセラーを生み出す鬼才・冲方丁が綴る長編ホラー小説「骨灰」(こっぱい)。『小説 野性時代』2021年9月号から満を持してスタートした連載を、順次配信していきます。(連載の続きがすぐに読みたい方は本誌をぜひ!)
建設現場で遭遇する不可解な事象、それをきっかけに身の回りに忍び寄る怪異、侵食されていく現実――。《からからに乾いた》戦慄のホラー小説をぜひお楽しみください。

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 いやいや、そんな馬鹿な。
 光弘は頭から地下室のことを追い出し、書類を集めて束にした。それをかばんに入れて仕事のことは忘れ、ダイニング・テーブルに一人座ってソーダ水を口にすると、心も体もリラックスするのを覚えた。
 家族が寝たあと、一人でこうしていると妙にほっとするのはなぜだろう。穏やかで、やるべきことをやり終えたあとのような満足感もある。確かに、こういう気分でなら一杯やっても悪いことじゃないかもしれない、と思ったとき、背後で水が流れる音がした。
 キッチンの水道の蛇口だとわかった。振り返る前に、美世子がコップに水を汲んでいる姿が脳裏に浮かんだが、その時点ですでに違和感を抱いていた。
 咲恵のときも今回も、つわりの影響で、美世子は水道水を口にすることができなくなっていたのだ。そのため玄関脇の小さな物置には、美世子のためのミネラルウォーターの箱が山積みされている。料理はもとより、歯を磨いたあと口をすすぐにも必要だからだ。
 おかげで光弘も水道水を飲む習慣がなくなりつつあったが、咲恵はそうではなかった。こちらは握力が足らず、大ぶりなミネラルウォーターのペットボトルの蓋を自力で開けられないため、咲恵専用の踏み台に乗って、水道水をコップに汲む方が楽なのだ。
 光弘は立ち上がってキッチンを覗き込み、凝然となった。
 果たして、咲恵が踏み台に乗り、ごくごくと水を飲んでいた。
 ただし、コップに汲むのではなく、小さな頭をシンクに突っ込むようにして、蛇口から流れ落ちる水に横から口をつけていた。
 ただ喉が渇いたというような姿ではない。今すぐ大量に水を飲まねばおかしくなってしまうというような動物じみた必死さを感じ、ぞっとさせられた。
「どうしたの、咲恵ちゃん。喉渇いたの?」
 声をかけたが、咲恵は振り返りもせず、ごくごく、ごくごく、とひたすら水を飲み続けている。髪の先がシンクの底に垂れ落ちるだけでなく、排水口に流れ込んでしまっているのが見えた。
「ちょっと咲恵ちゃん、やめなさい。コップにお水汲んであげるから」
 光弘はその行為に、というより、可愛いはずの娘に不気味なものを感じたことにショックを受け、強い口調で言った。
 だが咲恵はやはり返事をしない。光弘は手を伸ばして乱暴に水栓を閉じると、咲恵の小さな両肩をつかんでシンクから引きずり出そうとした。
 そのとき、あれがまたしても襲いかかってきた。

《《ピンポーン》》。

インターホンの音に、光弘はつま先から頭のてっぺんへと電流が流れたように総毛立った。どうやらうちのインターホンは本格的に故障したらしいぞ。そう自分に言い聞かせながら、のろのろと後ずさり、壁のモニターを見た。
 モニターは、誰もいないエントランスを映している。
 受話器を持ち上げようとしたところへ、美世子が寝室から起き出してきて、
「またなの?」
 と怯えきった声で訊いた。
 ああ、と光弘は掠れた声を返した。とにかく美世子を落ち着かせたかったが、それ以前に自分の体の内側が一瞬で凍りついたように緊張し、誰もいないエントランスの映像から目が離せなくなっていた。何か動くものはないか? 人影が画面のどこかに認められないか?
「《《咲恵ちゃん》》?」
 美世子がまた別のことに驚愕して声を上げた。
 気づけば再び水が流れる音がし、咲恵がむさぼるようにそれを飲む、ごくごく、ごくごく、という音が聞こえた。
「ちょっと、どうしちゃったの」
 美世子がわめいた。ほとんど泣き声のようだった。慌てた様子で咲恵の肩をつかみ、シンクから咲恵を引き離した。
 光弘が、モニターと二人の間で視線をせわしく行き来させるうち、映像がオフになった。
「咲恵ちゃん。ねえ、咲恵ちゃん。大丈夫? ママの声が聞こえる?」
 美世子が繰り返し声をかけるが、咲恵はぼんやりした顔を、流れっぱなしの水のほうへ向けようとするばかりだった。

つづく


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