極度に乾いた空気、鋭く鼻を刺す臭い、不可解な足跡。この底にあるものは――。 「骨灰」#5
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極度に乾いた空気、鋭く鼻を刺す臭い、不可解な足跡。この底にあるものは――。 「骨灰」#5

得体の知れない怪異と不条理が襲いくる――。
鬼才が放つ、戦慄の長編ホラー。

天地明察』『十二人の死にたい子どもたち』「マルドゥック」シリーズ。
ジャンルを超越しベストセラーを生み出す鬼才・冲方丁が綴る長編ホラー小説「骨灰」(こっぱい)。『小説 野性時代』2021年9月号から満を持してスタートした連載を、順次配信していきます。(連載の続きがすぐに読みたい方は本誌をぜひ!)
建設現場で遭遇する不可解な事象、それをきっかけに身の回りに忍び寄る怪異、侵食されていく現実――。《からからに乾いた》戦慄のホラー小説をぜひお楽しみください。


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 階段を下りてきた自分の足跡だった。あまりにそれがくっきり残っていることに眉をひそめた。なぜこんなふうに足跡が残るんだ?
 光弘は屈み込んで階段を見つめた。
 何かがうっすら積もっている。柔らかい雪のようだ。
 軍手をはめた右手の人差し指でこすると、それこそ雪のように跡が残った。
 白い粉塵だ。細かな灰にも思えた。とてつもない高温で焼かれたあとの灰だ。
 なんだか知らないが、どうもこれが臭気の原因らしい。息を吹きかければ舞い上げて吸い込んでしまいそうだった。
 アスベストのたぐいでないことを祈りつつ身を起こし、軍手の指先を壁にこすりつけて付着したものを落とした。
 コンクリートを切断するなどしたときの粉塵が吹き込んで溜まったのかもしれない。あるいは現場周辺の道路に敷き詰められたアスファルトの粉塵か。ますます防塵マスクを着けてくるべきだったと後悔しながら、タブレットをみぎわきに抱え、左手でジャケットのポケットからハンカチを取り出し、口元に当てながら再び階段を下りた。
 それ以上、地下へ続く階段はなかった。光弘はようやく底に到着した。
 狭い通路が続いていた。
 まだこの嫌な空気の中を進まねばならないのかと思うと、たまらなく不快な気分に襲われた。光弘は口の中をもごもごさせて、口内に唾をわかせようとしながら通路を進んだ。
 はたと足を止めた。
 これだ。
 タブレットでキャプチャー画像の一つを呼び出した。
「作業員全員入院」
 その文字が目に飛び込んできて、ぞわっ、と鳥肌が立った。こんな異様な空気が充満する地下にずっといたら、確かに病気になりそうだ。とはいえ決して何かのミスが原因というわけではないだろう。そのはずだ。光弘は気を取り直して画像と通路を見比べた。
 間違いない。「つぶやき」の発信者は、ここで撮影したのだ。
 光弘も、右手の軍手を外してポケットに突っ込み、通路をタブレットで撮影した。それからまたタブレットを腋に挟むと、右手はそのままに、ハンカチを口元に当てて歩んだ。
この先に、見つけるべき最後の場所があるはずだという確信がわいていた。
 位置的に、頭上の暗渠を横切り、東棟の真下に入ったはずだ。まさに『東棟地下』だった。その、最も深い場所といっていい。工事関係者のほとんど誰も入らないほどの。頻繁に人が来ていれば、足跡がそこら中に残っているはずなのだから。
 唐突に、目の前にドアが現れた。
 工事現場ではお馴染みの、暗証番号式の補助錠がついた、金属製のドアだ。
 正しい番号の組み合わせが分からない限り、開くことはできない。ここでいったん調査を終えてもおかしくなかったわけだ。地上に戻って喉を潤し、それから上司に報告をして、引き続き、最後の画像と合致する場所を探すべきかどうか訊ねる。
 ついでに現場事務所に戻って、一人か二人、付き添いを頼んでもいい。
 何しろこの空間は、理屈に合わないことが多すぎるのだから。このエリアに詳しい作業員に解説してもらったほうがいいに決まっている。
 もし、ドアが閉まっていたら。
 なんとしたことか、ご大層な錠つきであるにもかかわらず、そのドアは閉じていなかった。ドアとドア枠の間に、十センチほどの黒々とした隙間が見えている。
 いったい何のための錠だ。光弘は腹立たしさを覚えた。ドアが閉じていれば、ここで地上に戻ることができたのに、という思いを容易に抑えることができなかった。
 パニックの前兆かもしれない。光弘は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。怒りもパニックの一種だと聞いたことがある。恐怖を抑えようとして別の感情がわいてコントロールできなくなるのだ。
 光弘は怒りも恐怖もどうにかして受け流しながら、一層強まる乾燥と臭気に顔をしかめ、足先でそっとドアを押した。
 手が塞がっているのでそうするしかなかった。いや、正直なところ、そのドアに手で触りたくなかった。なぜだかわからないが、うかつに触れば怪我をしそうだと思った。いや、まったく理屈が通らないが、火傷をするのではないかと思ったのだ。
 そんな風に自分が考えることが不思議だったが、半開きだったドアが軋んだ音を立てて向こう側へ開くのを見て、どうでもよくなった。
 正直なところ、薄気味悪さと閉所恐怖がいっぺんに襲ってきており、ドアのことなど事細かに考えていられなかった。
 向こう側に広くて湿気のある空間があることを願って中へ踏み込み、暗がりにヘッドライトの光を浴びせかけた。
 果たして、意外に広い空間だった。ほうぼうに光を向けたが、どういう構造なのか予備知識がないこともあって、よくわからなかった。
 どうやらコンクリートの壁面に囲まれており、天井は吹き抜けのようになっていて、どこまで高いかは確認できず、踏みしめているのは、なんと剝き出しの土面だ。
 階段に降り積もっていたのと同じものが土面にも広がっている。一歩進むたび、白い石灰のような粉塵が舞い上がった。
 そのせいか、ここまで空間の状況が変わったというのに、空気は変わらなかった。むしろますます強くなるようだった。まるで火のついたオーブンか、補水を忘れたサウナの中のようだ。さもなくば──。
 唐突に死んだ父の顔がよぎった。瘦せこけた顔だ。棺の中で正装して永眠する父。
 図面の読み方は父親から学んだのか? そう竹中から訊ねられて、はい、と答えたときの誇らしさが自分でも意外だった。一方で、父は下請けの苦労がたたって心身を壊したのだという気持ちがあった。父の看病で疲れ果てた母の顔がちらつく。自分の妻には決してあんな顔はさせないと何度誓ったことか。
 おかしいぞ。なぜ、こんなにも死んだ父のことばかり思い出すんだ?
 動悸がした。あまりに乾燥しているせいで脱水症状に陥っているのかもしれないと思った。熱中症と並んで、建設現場で事故を引き起こす原因の一つだ。
 そこで突然、光の中にそれが現れた。
 穴だ。
 空間の奥に穴がある。四角い穴。数メートル四方の縦坑だ。
 間違いない。これだ。最後の画像だ。やっと見つけた。
 ぐっと息を止めて口からハンカチを離し、「つぶやき」のキャプチャー画像と見比べることなく、急いでタブレットを構えて撮影した。
 フラッシュが焚かれ、穴の向こうにある妙な構造物が光の中に浮かび上がっては消えた。
 向かいの壁際にテーブルが置かれているらしかった。その上に何かが置かれているが、何だかわからなかった。
『人骨が出た穴』
 その言葉が脳裏をよぎり、産毛が逆立つような感覚に襲われた。
 タブレットを落としそうになって慌てて腋に挟み、ハンカチを口に押し当てて荒い息を繰り返した。これからはどんな調査でも防塵マスクをつけてやるぞ。こんな目に遭うなら、いつでも鞄に一つ入れておいてもいいくらいだ。
 息が詰まっていよいよパニックに陥る前に、急いで退散すべきだった。
 光弘は振り返って出入り口を探した。
 なかった。
 《《そんな馬鹿な》》。


つづく

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