【試し読み】ひきなみ #2 |千早 茜
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【試し読み】ひきなみ #2 |千早 茜

千早 茜さんの『ひきなみ』(角川書店)が、4月30日に発売しました。刊行記念として、本作の魅力がたっぷり詰まった冒頭を大公開!
ぜひお楽しみください。

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【あらすじ】
私たちずっと一緒だと思っていたのに。
彼女は脱獄犯の男と、島から消えた。

小学校最後の年を過ごした島で、葉は真以に出会った。からかいから救ってくれたことを機に真以に心を寄せる葉だったが、ある日真以は島に逃げ込んだ脱獄犯の男と一緒に島から逃げ出し、姿を消してしまう。裏切られたと感じた葉は母に連れられ東京へ戻るが、大人になって会社で日々受けるハラスメントに身も心も限界を迎える中、ある陶芸工房のHPで再び真以を見つける。たまらず会いに行った葉は、真以があの事件で深く傷ついていることを知り――。女であることに縛られ傷つきながら、女になりゆく体を抱えた2人の少女。大人になった彼女たちが選んだ道とは。


 彼女のななめ後ろに工場群が見えた。クレーンや倉庫が離れていく。鯨みたいに巨大な船もあった。港や桟橋はもう見えない。空がのしかかってくるように大きい。低い雲とぬめる海のあいだには島があって、小さな森のようだったり、険しい山のように尖っていたりと、いろいろなかたちがあった。船はどるどると音をたてながら、風と海を裂いて島々の方向へと走っていく。揺れるたび、細かい水滴が飛んでくる。
 携帯電話をコートのポケットにしまって、女の子から少し離れて並んだ。彼女の真似をして、背伸びをして手すりに腕をのせる。スカートがふくらみ、おでこが全開になる。全身で重い風を受けていると、自分が海の上を駆けているような気分になった。立ったまま、体ひとつで、こんなスピードを感じたことがない。雲が流れて、太陽がさし、海の色がますます緑に輝く。
海が、広い。自分がいた陸が地球のほんの一部に思えた。ちらっと女の子を見る。風にたなびく髪が羽のようだった。目は海面を見つめたまま動かない。海を渡る黒い鳥みたいだと思った。
 なにも話しかけてくれないので、また海を見つめる。
 船が白い水しぶきをたてている。しぶきは風にまかれて細かく散って飛んでいく。その中でなにかがゆらめいた。眉のあいだにぎゅっと力をこめて目をこらす。
 透明な色の重なりがうっすら見えた。しぶきをまたいで浮かんでいる。「あ」と声がでた。
 女の子がこちらを見た。「にじ!」と私は叫んだ。自分でもびっくりするくらいの大きな声だった。女の子がかすかに目を細める。笑ったのか。船が揺れて視界がぶれた。しぶきの中の虹は消えかけては、またあらわれる。
「すごい」と言うと、女の子はちいさくうなずいて海に身を乗りだした。髪がぶわっと舞いあがる。
 ふたつに結んだ自分の髪もほどきたくなった。お気に入りのヘアゴムを外そうとすると、船が急に曲がった。よろけた私の体を女の子が支えてくれる。
 船はスピードを落とすと、島のひとつに向かっていった。海に低いコンクリートの壁のようなものが突きでている。そこをまわり込み、黄色っぽい土の浜に近づいていく。浜には網を積んだ小さな船や茶色い壺があったが、人はいなかった。
 木の桟橋に船が停まる。板が渡され、腰の曲がったおじいさんが船から下りていく。祖母が船室からでてきて「なにしよん? 寒いじゃろう」と手をひいた。私の行く島はここではないようだ。
 祖母の手は温かかった。自分の体が冷えていることに気づく。肌も服もべたべたとしていて、手の甲を舐めるとしょっぱかった。
 女の子はいつのまにか船の一番後ろに移動して、私たちに背を向けていた。じっと動かず、ふり返ってくれそうもない。
 音をたてて板が外され、船が動きだした。私は仕方なく、船室に降りると祖母の横に座った。目の裏で、さっき見た小さな虹が光っていた。陽に焼けたのか、頰がかすかにひりひりする。
風が頭の中を洗ってしまったようでなにも考えられず、揺られているうちに眠ってしまった。
 どるん、と大きな音がして、まわりの人が立ちあがる気配がした。いつの間にか、船が停まっていた。祖母にうながされ、立ちあがる。
 船を下りてふり返ると、対岸に木々におおわれた丸い島が見えた。こんもりとした緑の端に、赤い鳥居が建っている。こっちの島とは、車も渡れそうな大きな橋でつながっていた。橋は祖母がくれたみかんと同じ色をしていた。幼稚園の遊具のようなつるりとした橋は、景色からちょっと浮いていた。
 橋のほうへ、小さな人影が走っていく。大きすぎる上着で、さっき一緒に虹を見た子だとわかった。目で追っていると、祖母が「桐生さんとこの」と言った。
「あっちの島の子?」
「ほうよ」
 心なしか残念に感じた。ちょっとそっけない子だったけれど、友達になれるかもしれなかったのに。
 足が速い。島と島のあいだの橋を、女の子は走っていく。海を見つめていた横顔を思いだす。
「なにしてたのかな」
「わからんね」と祖母は歩きだした。「いなげな子じゃけえ」
 あ、と思った。さっき船に乗る前に祖母に言われた言葉と同じだった。あんまりいい感じはしなかった。同じ顔をして、母がよく祖母のことを「ホシュテキ」だと文句を言っていた。どちらも、自分たちとは違う、そう線をひくような言葉な気がした。
 もう暮れる、というようなことを祖母が早口で言った。夜に「ヨリアイ」があるらしく急いでいるようだった。
 海を見ると、さきほどまでのまぶしさがなくなっていた。乗ってきた船はすでに桟橋になく、遠くで掌くらいの大きさになっている。向かいの島は黒々とした重い緑色に変わりはじめ、もう橋に女の子の姿はなかった。
 
 船着き場から道路を挟んで、数軒の土産物屋と旅館が並んでいる。その先の曲がり角に、石の塔みたいなものがあって、石塀が続く。歩いていくと、奥に商店街があらわれる。
 商店街といっても、「とまり商店街」と書かれているアーチ状の看板は錆びて傾いているし、アーケードもなく、店がぽつぽつとあるだけ。びっくりするくらい人がいない。江戸時代からある古い港町なのだと祖母は言うけれど、閉まっている店のほうが多いし、店先の品物のほとんどは色褪せていて欲しいものがなにもない。
 肉屋の角を曲がると、また石塀に囲まれた細い道が延び、瓦屋根の大きな家が集まっている。その中のひとつが祖父の家だ。恐竜図鑑にでてきそうな南国の植物が塀の上から飛びでていた。
 空き家には入ってはいけないと注意を受けたが、道の途中で見えた半分崩れかけた家はお化け屋敷のようですごく怖かった。どの家の裏庭にも井戸があって、そこも危ないから近づいてはいけないと言われた。去年観た、井戸から長い髪の霊がでてくるホラー映画を思いだして震えあがった。
 祖父は軽トラックで帰ってきた。みかんやレモンを育てていて、畑は島の反対側にあるらしい。明日連れていってやると、大きな声で言い、軍手を外し、私の頭を撫でた。岩みたいにかたい手だった。祖母は祖父が帰ってくると、あまり喋らなくなった。言われるがまま茶を淹れ、風呂の用意をする。声もなんとなく小さくなっていた。
 二人とも、父と母のことは話さなかった。地図をひろげて、島や私の通う学校の説明をしてくれた。彼らは自分たちの島のことは、島とつけずに「香口」と呼んだ。
 小学校はひとつだけだと言った。「隣の島の子は?」と聞くと、祖父は「亀島にゃ子はおらんで」と音をたてて茶をすすった。「あそこは畑もできんし、香口の人間はおらん。外のもんの別荘なんかがあるだけじゃ」薄い皮の饅頭を「食べ、食べ」としきりに勧めてくる。
 祖母が台所からこちらを見た。「ほれ、桐生さんとこの」と小声で言う。「おう」と祖父が禿げた頭を打った。「平蔵と大違いの、かんぼうったれの子がおったのう」
 またわからない言葉。「なに?」と言っても、祖父は目を見ひらいて「あっこの島には昔、
人食い亀がおってな」と私をおどかそうとしてきた。そんな子供だましの昔話より、どんどん暗くなっていく近所のほうが怖かった。廊下の奥にあるトイレの窓からは、空き家だという隣の荒れた庭が見えて、日が暮れると黒く塗ったように真っ暗になった。夜に一人でトイレに行ける気がしない。
 せめて携帯電話を充電しておこうと思った。家に入ってからはずっと「圏外」の表示になっていたけれど。コンセントの場所を聞くと、「そんなもん子供に持たしよって」と祖父が低い声で言った。
「外に持ってらいかんけい」
「でも……お母さんがなにかあったときにって……」
「いかん」
 祖父は立ちあがると「風呂」と廊下へでていってしまった。空気が急にかたくなって、息がしにくくなった。
 充電コードを持ったまま動けなくなっている私のそばに祖母がやってきて、「誰も持ってないけえ」とつぶやいた。饅頭の包みを持って、さっと台所へ戻っていく。することもなく茶をすすると、青くさい匂いがした。

次回は5月2日更新です。

千早 茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞も受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞。著書に『男ともだち』『神様の暇つぶし』『さんかく』『透明な夜の香り』や『犬も食わない』(尾崎世界観との共著)、『鳥籠の小娘』(絵・宇野亞喜良)、エッセイ集『わるい食べもの』など。

ひきなみカバー

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