【連載】わたれない #1 | 彩瀬まる
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【連載】わたれない #1 | 彩瀬まる

雑誌「その境界を越えてゆけ」にて掲載された、彩瀬まるさんの「わたれない」を特別に一挙公開! 毎週月曜日更新の予定です。

会社を辞め、育児をメインで担当することになった暁彦。
“ママじゃない”ことに悩むが、あるブログに出会い……。

 ドアを開けて外に出ると、ひとすじの涼しさを含んだ風がむきだしの腕や首筋を軽やかに撫でていった。
 絡むような暑さだった昨日より、空の色が薄く感じる。暁彦は半袖のTシャツという自分の服装が、急に季節に対してちぐはぐになったような落ち着かなさを感じた。ただ、マンションの廊下は影が差している分、体感温度が低い。通りに出て日差しを浴びれば、やっぱり半袖でよかったと思うだろう。
 水色の空には、無数の小さな生き物が飛び回っていた。トンボの群れだ。秋と言えば赤とんぼだが、それにしては胴体の色が淡く、オレンジ色をしている。ウスバキトンボだ、と昆虫好きの暁彦はすぐに見当がついた。大きめの羽で、ひらりひらりと風を乗りこなすように飛ぶ。群れを成して移動する渡りの習性があり、よく間違えられるアキアカネより羽が薄くて華奢だ。その方が少ないエネルギーで長距離を飛べるのだろう。
 暁彦が暮らす部屋はマンションの五階にある。そのため、空を駆けるトンボの群れをほぼ真横から眺めることが出来た。昨日まで、うんざりするほど夏だった。けれど今日からは多少なりとも真新しい秋がにじみ出すのかもしれない。
 思いついて、周囲に人がいないのを確認し、ショルダーバッグから素っ裸のコッペくんとロールちゃんを取り出した。丸っこい手足、星の浮かんだ大きな瞳、栗色の合成繊維の髪、プラスチック製のつるりとした肌。彼らは三歳前後の子供に向けて製造されている抱っこ人形だ。コッペくんがショートカットの男の子で、ロールちゃんがウエーブのかかった髪をツインテールにした女の子。コッペくんは少し眉毛が太く、ロールちゃんは唇がうすピンク色で、ほのかに微笑んでいる。
 暁彦は昨晩仕上げたばかりの赤とんぼをビーズで刺繡した長袖のシャツと、葡萄色のコーデュロイのズボンをコッペくんに、紺色の生地にフェルトで作った金木犀をイメージした橙色の小花を散らしたワンピースをロールちゃんに着せた。二体を廊下の手すりに座らせて、まるでトンボの群れを見つけて喜んでいるかのように手足の角度を調整する。最後に、表情が生き生きとして見える角度を探してスマホで写真を撮った。赤とんぼのシャツの宣伝写真にちょうどいい。
 再び人形の服を脱がせ、傷がつかないよう透明なビニール袋に入れ、服も整理してバッグにしまった。
 トンボの群れはついついと空を泳ぎ、マンションから北に位置する川の方向へ消えた。暁彦もこれから、そちらへ向かう。橋を渡り、対岸の町に行くのだ。そこにはペンギンさんが住んでいる。

 四年前、暁彦が勤めていた事業所が閉鎖された。
 ハンカチやタオルなどのファブリック商品を扱うその会社は、業績不振に伴い関東地方からの撤退を決め、経営資源をすべて本社のある九州地方に集中させることにした。暁彦は本社への異動を打診されたが、妻の咲喜が近所の文具会社に勤めていること、住み慣れた地域で子育てや介護をやっていこうと計画していたことを考えると、なにもかもを放り出して見知らぬ土地に引っ越すのは、あまりに非現実的に感じられた。
 辞めようと思う、と相談したところ、咲喜は当時生後七ヶ月だった娘の星羅を膝であやしながら、そっか、と穏やかに頷いた。
「いいと思う。貯金もあるし、私も仕事に戻れたし、当面は困らないからゆっくり第二の人生を選ぼうよ」
 産休明けの職場復帰から二ヶ月。職場と保育園の双方に気をつかい、新しい環境で情緒不安定になった娘をなだめ続けた妻の顔には、深い疲れがにじんでいた。
「むしろ、いい機会かも。次はもっと早く帰ってこられる職場にして」
「あはははは」
 申し訳なさで笑うしかない。経営不振に陥った会社の常で人員が削減され、仕事が終わらず早朝から夜遅くまで職場に詰めていた暁彦は、出産からほとんど家事や育児に参加してこなかった。せいぜい出勤前にゴミを出して、帰宅後に流しに溜まった皿を洗うぐらいだ。
 辞める、と決めた途端に肩が軽くなった。心なしか呼吸が深くなり、血行が良くなった気がする。晩酌のビールの味も、風呂場の水音も、眠気で体温の上がった星羅の抱き心地まで、まるで薄い膜を剝がしたように鮮やかに感じられた。
 真夜中にふと、目が覚めた。隣に眠る星羅が何度も寝返りを打ち、ふえっ、ふえっ、と泣き出す手前のむずかり声を上げている。
 いつもは気が付くと朝なのに、よく目が覚めたなと思いつつ、暁彦は星羅を抱き、左右に揺らした。次第に泣き声が激しくなり、咲喜を起こさないようリビングに避難する。
「よーしよしよし、ねんねしな……」
 欠伸をしながら小さな背中に手を弾ませる。星羅はなかなか寝付かなかったけれど、退職を決めた高揚感もあって、根気よくあやし続けることが出来た。一時間ほどで潤んだ目がうっとりとつむられ、焼き菓子っぽい香りのする寝息が立ち上った。
 青暗いリビングに静けさが戻る。星羅は眠り、咲喜も深く眠っている。
 地球の平和を守ったヒーローは、こんな気分になるのだろうか。
 いい気分で水を飲み、星羅に腕枕をして、眠った。
 それから二週間後、暁彦は会社を辞めた。保育園に確認したところ、保育サービスを利用しながらの転職活動は三ヶ月までだった。これまでは七時半から十九時まで預けていたが、園側の人手が不足しているため、出来れば八時半から十六時半までの八時間に収めて欲しいという。咲喜の勤務時間には到底嚙み合わず、当面の送り迎えは暁彦が担うことになった。
 退職した翌日は、夜明け前に目が覚めた。徐々に明るくなっていく天井を見ながら、もし嫌だったら今日はどこにも行かなくていいんだ、ということに驚いた。体が妙にむずむずして、五時半には布団から出た。
 散歩がてら最寄りのコンビニに出かけ、食パンと粉末のコーンスープと林檎を買った。六時半にいきなり星羅が泣いた。抱いても身をよじって怒るので、どうすればいい、と咲喜に聞くと、「ミルクをあげてええ……」と枕に突っ伏したまま地獄から響くようなデスボイスで言われた。ミルク缶の説明書きを読み、湯を沸かしてミルクを作る。哺乳瓶でそれを飲ませつつ、とろけるチーズをのせた二枚の食パンをトースターに入れた。コーンスープとチーズトースト、皮は剝かずに――というか剝けないので剝かずに、八つ割にして芯を取った林檎を食卓に用意し、七時に咲喜を揺り起こした。
「うわあ、なんてこった。幸せだあ」
 咲喜はしばらく布団に突っ伏して悶えていた。
 膝に星羅をのせ、夫婦で向かい合ってテーブルにつく。片手で食事をとり、もう一方の手でげっぷをさせようと背中をさすっていたら、星羅がこぽりと大量のミルクを吐いた。もっと欲しいと言わんばかりに泣くのでたくさん飲ませてしまったが、飲ませ過ぎたのかもしれない。星羅はもちろん、抱っこしていた暁彦も肩から腹まで吐き戻されたミルクで汚れ、ベビーバスの使い方を教わりながら二人で朝から風呂に入った。
 保育園に持っていく荷物の準備は咲喜がやってくれた。先に出発する彼女を見送り、着替えさせ、髪をタオルドライした星羅を抱っこ紐に入れる。
 星羅の支度を終え、ふいに手が留まった。
 自分はなにを着るべきだろう? スーツ? いや、退職したのにスーツって。しかしあまりにラフな格好だと、これから仕事に向かう保護者の中で浮きそうだ。迷った挙句、襟付きのシャツにチノパンという無難な格好を選んだ。
 車は妻が使っているため、徒歩で同じ町内の保育園へ向かった。ゴミを捨てに出てきた同じマンションの住人に会釈し、朝露に濡れた町を歩き出す。少し前なら、とっくに電車に乗ってメールを確認していた時刻だ。それなのに軒先の木々なんて眺めながら、駅とは正反対の方向に歩いている。胸元に蟬のようにくっついた星羅もまた、不思議そうに父親を見上げている。丸い墨色の瞳に、逆光で影になった自分の顔と、水色の空が映っていて、なんだか宝石みたいだった。
「星羅ちゃん今日はパパが送ってくれて嬉しいねえ」
 キャラクターのアップリケ付きのエプロンを着た保育士が星羅を抱きとり、お預かりします、と笑った。登園時刻の保育園はそこらじゅうで子供が泣き、早く来なさいうわばきどこやったの走り回らない! と親が𠮟り、先生たちはぐずる子供らをおんぶしながら、抱っこもして手もつないで、とさながら戦場のようだった。「どうして今日はパパなんですか?」と誰かに聞かれることもなく、暁彦は中身のいなくなった抱っこ紐を小脇に抱えて家に戻った。
 リビングに散らかった星羅のおもちゃをしまい、洗濯機を回す。とりあえず再就職するまでなるべく家事はやろうと思っていた。朝食の食器を洗い、コーヒーを淹れ、求人サイトを軽く眺める。洗濯物を干し、床にずいぶん髪の毛が落ちているのに気づき、時間をかけて部屋を片付けながら掃除機もかけた。昼食は、戸棚のカップ麺で済ませた。
 求人サイトを見ていてもなかなか次の仕事のイメージがつかめず、午後はリビングのソファに横になった。いつも漠然と散らかっていた部屋が整頓され、気分がいい。朝に慌ただしく出かけ、深夜に帰ってくる。それだけの時間しか家にいなくても、廊下のすみに髪の毛と綿埃のかたまりが落ちているのがずっと気になっていた。気になっていたのに、そんなゴミ一つ片付ける気力すらなくなっていたんだ、と今更気づいた。
 夕方、迎えに行った星羅を再び抱っこ紐で胸にくっつけ、暁彦はスーパーに出かけた。唐揚げと、野菜の入った惣菜をいくつか買う。高校の家庭科実習以来だけど、味噌汁は自作することにして、わかめと豆腐も買い物かごに入れた。夕飯は用意しておくよ、と咲喜のスマホにメッセージを送ると、「やったー!」とハートの乱舞する返事が届いた。
 米はうまく炊けたけれど、味噌汁がおいしくならなかった。薄すぎる、と思って味噌を足すと、今度はしょっぱくて具材の味もなにも分からなくなる。
 帰宅した咲喜は食事の並んだテーブルに目を輝かせ、すごい、すごいと興奮しながら箸をとった。
「味噌汁がいまいちなんだ」
「そう?」
 咲喜は味噌汁をすすり、すぐに「おいしいよ?」と言った。
「でも、そうだなー……だしを入れるの忘れた?」
「あ、そういうことか。昆布や鰹節でとるんだっけ」
「そんな面倒なの使わなくても、顆粒だしで充分だよ。スティックタイプのが、冷蔵庫の横の引き出しに入ってるから」
「なるほど」
 明日はそれを使ってみよう、なんて考えていると、咲喜が「あ!」とすっとんきょうな声を上げた。
「しまった、星羅の離乳食」
「あ」
「もうミルク飲ませちゃった?」
「うん、さっき腹減ったって感じでぐずってたから」
「そっか、ごめん。ちゃんと言ってなかった。朝と夜のミルクの前に、おかゆとか潰した野菜とか食べさせてるんだ。ミルクを飲むと、もうお腹がいっぱいで食べないの」
「明日からそうするよ」
「離乳食、冷凍庫に少しだけどストックもあるから、あとで説明するね」
 ただミルクを飲ませて寝かせるだけだと思っていたけど、赤ん坊の世話は想像以上に細々としたタスクが多い。
 朝だけでも、授乳以外にオムツ替え、顔を拭く、歯を磨く、爪を切る、着替えをさせる、よだれかけやタオルなど保育園に持って行くものを鞄に詰める、体温を測る、保育園のノートに昨晩の食事や体調を記入する、と咲喜に教えてもらいながら家中を行ったり来たりした。その間に星羅は泣いて抱っこを求め、うんちをし、ミルクを吐き戻す。哺乳瓶を洗う、オムツを替える、うんちをトイレに流して汚れたオムツを処分する、衣服やよだれかけなどを洗濯する、といった副次的なタスクも発生する。手を動かしている間も、危ないものに触ったり、変なものを口に入れたりしないか、常に視界の端ではいはいする星羅の動向を確認し続けなければならない。トイレに入って姿が見えなくなると泣かれるのも困った。
 その上、離乳食作りなんて。
 しかも職場復帰をして以来、咲喜はこれらの作業を仕事と並行して、一人で回していたのだ。
 寝かしつけの時間に、一波乱あった。暁彦が抱っこすると、一緒に寝るのはどうしてもママがいいとばかりに星羅がものすごい声を上げて泣くのだ。二十分ほど絶叫されて辛さを感じ、暁彦はパジャマ姿の星羅を咲喜に託した。母親に抱き取られた途端、すぐに泣き声が弱くなるのが悔しい。光量をしぼった寝室を出て、リビングで待っていると、十分も経たずに咲喜だけが外に出てきた。
「子供の世話って、こんなに手がかかるんだな」
 ねぎらいを込めて冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、渡す。
「おお! 分かってくれて嬉しい」
 ぷしゅ、と音を立ててプルタブを持ち上げ、咲喜はにっこりと笑った。保育園に預け始めたのを契機に、彼女は星羅への授乳をやめ、粉ミルクオンリーに切り替えた。
「でも今日は料理も掃除もしてくれて、すごく嬉しかったよ。なんかもう、夢みたいな感じ」
「大げさだなあ。明日もやるよ」
「うん、ありがとう」
 ものすごく嬉しそうにビールを飲む妻を見ているうちに、暁彦は複雑な気分になった。壁に掛かった時計を見上げる。二十二時半。勤めていた頃なら、やっと帰宅したぐらいの時間だ。特別に熱意のある社員、というわけではなかったが、年々人員が削られていく中で地道に仕事をこなし、残業も引き受け、苦労を重ねて給料を得てきた。だけど自分が仕事をすることについて、咲喜がこんな風に喜んだり、感謝してくれたりした記憶は乏しい。
「いっそ再就職するの辞めて、俺が専業主夫になろうか。そうすれば料理も掃除も毎日するよ?」
 多少、当てつけっぽい感情も混ざっていたかもしれない。これまでの自分も、稼ぎ手として頑張っていたと思い出して欲しい。そんな甘えた気分もあった。冗談だったし、すぐに否定されるだろうと思っていた。なんだかんだで、男は稼がなければ。そうした古い価値観が、自分の中にあった。
 咲喜は予想通り、眉をひそめた。しかし彼女が口にしたのは、思いがけない内容だった。
「専業主夫って、たぶん、向いてないと辛いよ?」
「え?」
「ほら私、産休を半年ちょっととったわけだけど、時々頭おかしくなりそうなくらいしんどかったもん。赤ん坊って言葉も通じないし、いつ泣き出すか分からないし、目を離すと危ないことするし、一緒だとずっと気を張ってなきゃいけない。片親が専業だと保育園に入れられないから、日中は子供を一人で見ることになる。毎日毎日、公園や児童館にベビーカーで連れて行って、一緒に遊んで、他の子供とうまく遊べてるか見て、気を配って……その上、家事もやるわけでしょう? 職場みたいに、気軽にコミュニケーションの取れる大人が身近にいるわけでもない。幼稚園に入れるまで、自分の時間はほとんどない。そういう環境でストレスをコントロールして、子供に当たらず、家を整え、楽しく過ごし続けるって才能が必要だよ。正直私は……そりゃ朝と夕方はバタバタするけどさ、でも、仕事に復帰してからすごく精神的に楽になった。専業主婦、たぶん向いてなかった」
 予想外に具体的な意見にどう返そうか迷っていると、咲喜は少し考えて続けた。
「もちろん、暁ちゃんが、そういうのが自分に向いてるって思うならとめないよ。ただ、息抜きの方法を確保するとか、困った時にパッと助けを求められるなんらかのサービスに登録するとか、準備はした方がいいと思う」
 平然と言われて、驚いた。
 思えば自分は以前から、会社が経営不振に陥っていること、余裕のなさから社内の空気がよどみ、パワハラに苦しみ自殺未遂をした上司や、うつ状態になった同僚がいることを咲喜に話していた。もしかしたら彼女は夫が働けなくなる可能性について、すでに考えをまとめていたのかもしれない。
「分かった。もっと色んな可能性を検討してみる」
「うん。そうして」
 ふええええ、と寝ぼけた声が寝室から漏れ出した。先ほどは咲喜が寝かしつけたので、今度は自分の番だろう。絶叫されないといいな、と腰が引けつつ、暁彦は寝室へ向かった。


続きは5月3日(月)更新の予定です。


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。「花に眩む」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』を2012年に刊行。近著は『くちなし』『不在』『珠玉』『森があふれる』『さいはての家』『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』など。


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「家族」「男女」――安心できるけれど窮屈な、名付けられた関係性の中で、人はどう生きるのか。家族をうしない、恋人をうしない、依るべきものをなくした世界で、人はどう生きるのか。
いま、最も注目されている作家・彩瀬まるが、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る、野心的長篇小説。

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