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【連載】明日も一日きみを見てる 第15 回 | 角田光代

小説 野性時代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!

毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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角田さんを見るといつも「ああ」という顔をするとらちゃん。
なぜか最近、愛想がないなと思っていたら……。

第15回 猫小屋と新キャラ事件

 猫はあまり目がよくないといわれている。飼い主を認識するのも、視覚よりも聴覚や嗅覚でとらえることのほうが多いらしい。

 でも、どんなに視力がよくないとはいっても、猫は人の顔を見分ける、と私は信じるようになった。朝、私が出勤する前によく顔を出すとらちゃんは、私を見かけるとその場で前脚をフミフミと動かす。敷地の外でも、ついーっと歩くとらちゃんを見かけ、「あっとらちゃん」と声を掛けると、振り返って、「ああ」という顔をする。

 毎週末の早朝に私はランニングをしているのだが、コロナ感染が広がりはじめた二〇二〇年の春からマスクをして走るようになった。ランニングから帰ってくると、家の前にとらちゃんが座っていることがある。マスクをした私を怪訝な顔で見るとらちゃんに、マスクを外して見せると、「あっ」という顔をする。
 においかもしれないし、もの音かもしれない、けれどどうしても、私の顔を見て、知っている人だと認識しているように見えてしまう。

 仕事から帰ってきたある日、近所の道をとらちゃんが横断している。「あ、とらちゃん」と声を掛けると、ちらりとこちらを見上げたが、いつもの「あっ」という顔の変化がない。マスクをとって顔を見せたが、ちろんと見るだけで、すぐに前を向いて歩いていく。そのとき、とらちゃんが右前脚を持ち上げているのに気づいた。「どうしたのとらちゃん、足けがしたの?」と訊いても、無視して、右前脚を上げたままひょこひょこと路地の奥に入っていってしまった。

 なんだかとらちゃんにしては愛想がないが、けがしていたみたいだから、愛想をふりまく余裕もなかったのかもしれない、それにしてもけがはだいじょうぶだろうか。そんなことを思っていた翌日、家の人が裏庭に作った小屋の下に、とらちゃんがまるくなって眠っている。それを発見した私と家の人は、「小屋に入ればいいのに」「外が落ち着くのかねえ」と話していた。

 その声が届いたわけではないはずだが、その日の夕方、仕事から帰ってちらりと小屋を見ると、とらちゃんは小屋に入って眠っている。
 今まで、雪の降る寒い日も日射しの強い日も、けっして小屋には入らなかったとらちゃんに、いったいどんな心境の変化があったのか。
 翌朝もとらちゃんは小屋に入っている。もしかしてけがをして、痛くて、あそこであんなふうにして休んでいるのかもしれないとふと思う。

 とらちゃんの素性について、くわしいことは何もわからない。私は勝手にどこかの外猫だと推測しているけれど、野良猫なのかもしれない。どちらにしても、けがした足が痛くておうちに帰れないのかもしれず、ごはん狩りもできないのかもしれない。けがが治るまで小屋で休んでいるとするなら、ちょっとごはんをあげようか……。

 私は迷いに迷ったあげく、とらちゃんがやっぱり小屋から一歩も出てこないのを確認し、ごはんと水をあげることにした。器を持って小屋の前にいくと、とらちゃんが小屋から顔を突き出し、「シャアアアアッ」とみごとに威嚇する。その顔を見て、はっとした。
 とらちゃんじゃない! 似て非なる猫だ!

 まったくおんなじ全身茶トラ猫で大きさも似ているが、顔つきが違う。そして男の子だと判明。いったいどこからきた茶トラ猫なのか。

 この猫は、たしかに前脚をけがしていて、小屋を出入りする際にも前脚を浮かせていて、ごはんを食べる以外は小屋から出てこない。私を見かけると「シャアアアアアッ」とただしく威嚇しながらも、にゃうにゃうと鳴く。
 もしかして、どこかで飼われていた猫で、ちょっと外出した折りにほかの猫と闘争になり、けがをしてしまい、休めるところをさがして逃げてきて、小屋を見つけ、「お、ちょうどいい」と療養しているのだろうか。それにしてもけがをどうしてあげたらいいものか。放っておいてもいいものなのか。

 とりあえず、迷子猫かもしれないので、区役所と動物愛護相談センターの担当部署に電話をして、猫の失踪情報がないか確認した。該当猫はいないが、いったん動物愛護相談センターには情報を登録してもらう。
 毎朝起きると小屋を見て、とらちゃんと区別するためにトラ男とかりに名をつけて、トラ男がいるかどうか確認した。トラ男は一日じゅう小屋にいて、トトとまったくおんなじように頭をさかさにして寝入っていたり、まるくなって寝入っていたり、とにかくよく寝入っている。

 そうして一週間ほどたったある朝、小屋を見るとトラ男がいない。あっ、トラ男がいなくなった、と家の人に伝えると、「ついにチェックアウトか」と、だれもいなくなった小屋をのぞいている。小屋の作り手としては、需要があってうれしかったのだろう。
 その日の夕方、近所の塀を歩いている茶トラ猫を発見し、とらちゃんか、トラ男か、よくよく見ると、トラ男である。とらちゃんは尻尾が短くまるっこいが、トラ男の尻尾はまっすぐで長い。塀の上のトラ男はつーんとしている。驚いたことに、持ち上げていた右前脚のけがは自力で治したらしく、ごくふつうに着地させて歩いている。

 トラ男のチェックアウト後、深夜、近隣で猫のにらみ合う声が聞こえてきて目覚めた。うー、うー、と距離を保って威嚇し合っている。たぶん、トラ男と、ときどき見かける(トトが敬遠している)キジと白の混じった大きな猫だろう。ああ、けんかはやめてくれ、けんかするからあんなふうにけがしたりするんだ……と、にらみ合いの声が聞こえなくなるまで祈るように思っていた。

つづく

角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業などで読売文学賞受賞。

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