人がいないのに鳴り続けるインターホン。何かが、おかしい。 「骨灰」#16
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人がいないのに鳴り続けるインターホン。何かが、おかしい。 「骨灰」#16

小説 野性時代
得体の知れない怪異と不条理が襲いくる――。
鬼才が放つ、戦慄の長編ホラー。

天地明察』『十二人の死にたい子どもたち』「マルドゥック」シリーズ。
ジャンルを超越しベストセラーを生み出す鬼才・冲方丁が綴る長編ホラー小説「骨灰」(こっぱい)。『小説 野性時代』2021年9月号から満を持してスタートした連載を、順次配信していきます。(連載の続きがすぐに読みたい方は本誌をぜひ!)
建設現場で遭遇する不可解な事象、それをきっかけに身の回りに忍び寄る怪異、侵食されていく現実――。《からからに乾いた》戦慄のホラー小説をぜひお楽しみください。


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「え?」
「誰かが鳴らしてるんじゃないの?」
「インターホンが鳴ってるのか?」
「そう。なんで鳴るの?」
 美世子が腹を立てたように訊き返した。光弘は、うっかり美世子の感情に引きずられ、今しがたわき起こった怒りが闇雲に表に出てこないよう、また奥歯を嚙みしめ、鼻でゆっくりと息をついた。
「誤作動だな、やっぱり。見るから待ってて」
 安心させてやるために断言しながら、開かないよう注意していた自動ドアに歩み寄った。いったん携帯電話を耳から離し、自動ドアが開いた瞬間に誰かが突進してきて侵入を試みるのではと身構えたが、誰も飛び出してはこなかった。
 光弘は、外に通じる通常のドアが視界に入り続けるようにしながら横歩きでエントランス側の操作盤に近づき、表示画面に目を向けた。
『401』
 操作盤の電子モニターになぜか光弘の部屋のナンバーが表示されていた。誰かがその番号を押したあと、誤作動で消えなくなったか。それとも、機械が故障してそうなったのか。理由を推測しているうちに、呼び出し音が鳴った。エントランス側の操作盤であるためそれほど音は大きく聞こえなかった。だがどうやらこの機械が勝手に音を鳴らし続けているらしく、自分が口にしたとおり誤作動なのだという確信がわいた。
「ねえ、大丈夫?」
 携帯電話ではなく、操作盤のスピーカーから美世子の声がした。インターホンの受話器を取って応答しているのだ。
 光弘はカメラに向かって口角を上げ、楽しげに見えるよう手を振ってみせた。
「全然大丈夫。誰もいないから。機械が変になってるだけだよ。今止めるからね」
 一緒に聞いているはずの咲恵にも伝わるよう言った。
 光弘は、それでも通常のドアのほうをちらちら見ながら、操作盤の消去ボタンを押した。『1』が消えた。さらに押して『0』を消し、最後に『4』を消した。
 携帯電話をまた耳に当てて尋ねた。
「もしもし」
「音はやんだ?」
「今は鳴ってないけど……」
「ちょっと見てようか」
「大丈夫? 気をつけて」
「大丈夫だよ」
 光弘は操作盤と通常のドアを交互に見つめながら、美世子に声をかけ続けた。だんだん美世子が落ち着いてくるのが感じられた。しばらくそうしていたが、操作盤が勝手に作動することはなかった。
「今から戻るよ。ああ、こっちでドアを開けるから大丈夫」
 ドアを開けてもらうためにはインターホンを鳴らさないといけない。それでまた美世子の不安がぶり返さないよう、携帯電話を耳に当てたままポケットから鍵を取り出し、リモコンボタンを押して自動ドアを開けた。今どきはなんでもリモコンだ。車でもオートロックの自動ドアでも、ボタン一つでエンジンがかかったり開いたりすることに当初は新鮮な驚きを覚えたものだが、今ではすっかり当たり前になっている。
 念のため用心は怠らず、通常のドアのほうをしっかり見ていたが、やはり誰も現れなかった。マンションの住人が来ることもなかった。雨模様とあってか人通りもないようだった。
 光弘はエントランスの中に入って自動ドアが閉まるのを見届けた。一件落着かな。そう思って、ようやく自然と笑みが浮かぶのを感じながら美世子に言った。
「直ったと思うよ」
「ああ、よかった」
 どうにか美世子も安心したらしい。よかったあ、という咲恵の声も聞こえた。
「じゃ、電話切るよ。すぐ戻るね」
 ひと仕事終えた気分で光弘は携帯電話をオフにし、エレベーターに乗った。そこでふと右手の人差し指に違和感を覚えた。手を持ち上げて指の腹を見つめた。
 うっすらと何かが付着していた。白っぽいほこり。あるいは粉塵。それを揉むようにして指から落としながら、何かの臭いを嗅いだ気がした。地下深く、からからに乾燥した空気の中で嗅いだあの臭いを。
 そんな馬鹿な。
 エレベーターのドアが音を立てて開き、光弘をびくっとさせた。
 暗い穴のことが思い出され、それが今、頭上と足下に存在しているという実感に襲われた。エレベーター坑の真ん中にいる。その事実に、ぞくっとした。
 ドアが閉まり始め、慌てて手で押しとどめ、エレベーターから出た。早足で廊下に出て、いったん息を整えた。どうも暗闇恐怖症になりかかっている気がするぞ。光弘は自分自身に対してそう指摘してやった。たった一度のパニック体験だというのに、ずいぶん深く心に刻まれてしまったらしい。
 大丈夫。数を数えながら息をする。ちょっと落ち着いてきたら家族の名前を頭の中で唱える。美世子。咲恵。美世子。咲恵。そして、これから生まれる赤ちゃん。もう大丈夫だ。
 光弘は、ふうっと息を吐き、部屋へ向かった。
 部屋のドアはさすがにリモコンではない。鍵を差し込んで解錠し、バーハンドル型のドアノブを握ってそれを下に押し下げてから引っ張ってドアを開けた。
 すうっと空気が動くのを感じた。自分の体にまとわりついていた空気が、開いたドアの隙間からするりと流れ込んでいくのを。
 気圧差のせいだ。光弘はそう考えながら玄関に入り、ドアを閉めて施錠した。雨が降っているし、気圧のせいで外の空気が部屋に流れ込んだんだ。
 だが今感じた空気はいやに乾燥してはいなかったか。雨がぱらつく外の空気とは異なる何かが、エレベーターからここまでついてきたようだった。いや、そもそもそれはエントランスのあの空間にわだかまっていたのではないか。自分を呼び寄せるために。あるいはどうにかして部屋に入り込むために。そのことに気づかず、うっかり連れてきてしまったのかもしれない。追いかけてきたことに気づかずに。
 いったいどこから追ってきたというのか。
 あの穴。
 地下鉄のトンネルを這い進んで。
 心臓が早鐘を打ち始めたところで、咲恵が勢いよく廊下を走ってきて抱きついた。
「お帰りなさい!」
 美世子が遅れて現れながら、「もう夜なんだから、大きな音を立てて走らないの」とたしなめたが、咲恵の耳に届いている様子はなかった。
 光弘はおかげで我に返り、今しがた考えていたことを頭の隅に押しやった。靴を脱いで咲恵を抱き上げると、首にしがみつかれた。
「ただいま」
 二人に告げながら、笑顔で美世子に歩み寄った。動悸はすぐには収まらないようだが、これ以上ひどくなる感覚はなかった。ダイニングに戻って座る頃には、この突発性恐怖症を追い払えているだろうし、すぐにそれを永久的に退散させる方法も見つかるだろうという楽観的な考えを抱いた。
 だが、まだ廊下にいるうちに、咲恵が光弘の背後を指さしてわめいた。
あー● ●! パパ、あんよ● ● ●が汚れてる!」
 それを見た美世子がきびすを返すので、光弘もそうした。胸元で咲恵が身をよじって向きを変えた。
 玄関から入ってすぐのところに、足跡が一つ見えた。大きな右足の跡だ。裸足の足の裏に白っぽい粉を付着させ、そのまま玄関を上がってきたような足跡だった。
 美世子が無言で光弘の足下に目を向けた。短い夏用の靴下を履いた両足を見つめ、眉をひそめた。まるで夏なのに靴下を履いているなんてと咎められているみたいだった。裸足でいると文句を言うのは美世子のほうなのに。足が汗をかいてそれがスリッパや床について臭いの原因になるのだから靴下を履くべきだと主張していたではないか。
 いや、問題は靴下ではない。美世子のおもてに再び不安の念があらわれるのを察して、光弘は慌てて言った。
「ごめんよ、現場の埃がついてたみたいだ」
 光弘は言って、咲恵を降ろした。その場で靴下を脱ぐと、玄関のほうへ行ってかがみ、一方の靴下を雑巾代わりにして、一つだけついた足跡を拭い去った。
「待って。そのまま洗濯籠に入れないで」
 美世子がさっとキッチンへ行き、小さめのポリ袋を持って来た。コンビニで買い物をしたときの袋だ。それを広げるので、光弘は靴下を中に落とした。
「工事現場で靴を脱いだの?」
「そんなことするわけないだろ。靴の隙間から入ったんだと思う。コンクリートを切断したときに出る粉塵だろうな」
「アスベストとかじゃない?」
「まさか。大丈夫だよ」
 だが美世子はきっちり袋の口を縛って密封し、ふとまた玄関のほうへ顔を向けた。
「あなたの足跡よね?」
 そう口にした直後、質問したせいでかえって怖くなった、というように美世子が顔を強ばらせた。
 美世子が言わんとしていることはわかった。美世子と光弘の身から同時に、おかしな考えがふわふわ漂い出しているのだ。それがいかに馬鹿な考えであるかも互いにわかっており、それで二人とも笑おうとしているのに、どうしてもできないといった感じで妙にまごついてしまった。
 見えないお客さん● ● ● ● ● ● ● ●
 いいや、馬鹿げている。明らかにおかしな考えだ。気分を変えないと、そのうちこのろくでもない突発性の恐怖症を、家族にもうつしかねないぞ。そう自分を戒めながら光弘は言った。
「心配なら捨てよう。靴は明日洗う。とりあえず足も洗ってくるよ」
 光弘は美世子の手から袋を取ると、キッチンへ行って生ゴミ用のゴミ缶に放り込んだ。それからバスルームに行って、手と足を洗った。帰宅してすぐシャワーを浴びたんだけどな、と考えかけてやめた。なのにいったいどうして手や足に見覚えのある粉塵がつくのかという疑問に意識を向けたくなかった。
 入り込まれた● ● ● ● ● ●
 石鹼の匂いが、あの臭いを消してくれるようにと自分が願っていることに気づいていたが、しっかりと無視した。
 見えないお客さん● ● ● ● ● ● ● ●
 光弘はうっかりその言葉を口にしてしまわないよう胸の奥に押し込んだ。それから手足をバスタオルで拭き、しいて微笑みを浮かべ、家族が待つダイニングに戻った。


つづく

ありがとうございます!
小説 野性時代
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