【連載】わたれない #2 | 彩瀬まる
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【連載】わたれない #2 | 彩瀬まる

雑誌「その境界を越えてゆけ」にて掲載された、彩瀬まるさんの「わたれない」を特別に一挙公開! 毎週月曜日更新の予定です。

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あらすじ
会社を辞め、育児をメインで担当することになった暁彦。
“ママじゃない”ことに悩むが、あるブログに出会い……。

 二週間ほど経つと一通りの家事に慣れ、生活のリズムが出来ていった。洗剤と柔軟剤の違いも、それぞれを洗濯機のどこに入れればいいのかも分かった。星羅の離乳食は、栄養バランスのとれたベビーフードがドラッグストアでいくらでも手に入った。風呂場の水はけが悪かったため、固く閉じていた排水口のふたに歯ブラシの柄を差し込んでテコの原理で外してみると、中には大量の髪の毛が詰まっていた(あのふたって外れるんだ! と咲喜は驚いていた)。
 午前中に家事をして、午後は履歴書を作ったり、求人サイトを巡ったり、元の会社の知り合いに会って伝手を探ったりと求職活動にあてる。早くから、漠然とした違和感はあった。いくら検討してもこれぞという勤め先が見つからない。業界のイメージさえ湧かない。仕事の内容よりも、勤務時間や残業の有無の方が気になる。家をメンテナンスして、快適に過ごしたい。またあの早朝に出て深夜に帰ってくるような、生まれたばかりの子供が気が付くと生後七ヶ月になっているような生活をするのではなく、ある程度は家族と一緒に暮らしたい。水色の宝石のようだった、星羅の瞳を思い出す。ああいうものを、取りこぼさずに生きていきたい。
 もしかしたら自分にとってちょうどいいのは、正社員の働き方じゃないのかもしれない。そう思い始めたら、今度はスムーズに勤め先の候補が決まった。
「デパートの洋服の仕立て直し屋で、アルバイトを募集してるんだ。九時から十七時までのシフト勤務。それなら送り迎えにも行けるし、今までより家事も出来るだろう。とりあえず星羅が小学校に入るまでは、家になるべく関わっていたいって思うんだけど……どうだろう」
「仕立て直し屋? 暁ちゃん、裁縫なんて出来たの?」
「ハンカチやタオルのサンプル作る部署にいたから、ミシンは一通りできるよ。そもそも布製品が好きで前の会社に入ったんだし」
「楽しく過ごせそうなら、いいんじゃない。なんだ、それなら保育園のバッグとか作ってもらえばよかった」
 咲喜は少し驚いた様子で、でも笑いながら頷いた。暁彦は少し改まって言った。
「稼ぎ頭が咲喜になるわけだけど、本当に抵抗はない?」
 一九八〇年代生まれの自分たちは、父親がサラリーマンで母親が専業主婦という家庭がとても多い世代だ。暁彦の実家も、咲喜の実家もそうだ。暁彦は、自分が稼ぎ頭になる想像はしても、家のメンテナンスや子育てのメインプレイヤーになる想像はあまりしたことがなかった。それは咲喜だって同じだろう。いくら想定していても、大きな変化を選ぶことになる感覚はあるはずだ。
 咲喜は口を閉じ、数秒首を傾けて考え込んだ。
「なんていうか私、結局暁ちゃんのこと好きなんだよね。勤めてた頃も『疲れてたら皿は流しに運ばないでテーブルの上に残したままでいいから』って言ってたでしょう。そういう……フェアっていうのかな、なんだろう、全体を見てバランスをとろうとするところ、すごいし、えらいなーって思うの」
「ええ……どうも」
 急に褒められて、狼狽する。咲喜は一度頷いて続けた。
「だから今回こういうことになって、私の収入面での責任が増えて、それは私が頑張れば暁ちゃんや星羅が元気に過ごせるってことで……なんというか、今までより深く、好きな相手の人生にかかわってる気分なのね」
「まあ、うん」
「なかなか官能的でいいよ。興奮する」
 大真面目に言って、親指をぐっと立てられた。
 自分の妻は、割と面白い性質の人だったらしい。それとも妻という人たちはみんな、実は面白い性質を隠し持っているのだろうか。
 彼女の興奮のポイントがいまいち分からず、暁彦はあっけにとられたまま「それはよかったです」とぎこちなく答えた。

 妻に興奮された日を思い出しつつ、よく晴れた午前の町を歩き出す。橋へ向かう途中で郵便局に立ち寄り、午前中に梱包した商品を五つ発送した。
 建物を出ると、オレンジ色のウスバキトンボが目の前をすいっと通り過ぎた。きっと先ほどマンションの廊下で見たのと同じ群れだろう。少し顔を巡らせるだけで、近くの民家の軒先に一匹、薄曇りの空に一匹、色づき始めた柿の実のそばにもう一匹と、あちこちに姿が見える。
 子供の頃から虫が、特に虫の羽が好きだった。蝶の羽、蟬の羽、トンボの羽。鮮やかで美しい文様や、薄さの中に秘められた複雑で強かな構造に魅せられ、幼稚園児の頃にはもう昆虫図鑑を開いて、それらの羽を画用紙に描き写していた。精密なものが好きなのだ。覗き込めば、そこに小さな世界が広がっているように感じる。
 気がつくと、ほんの一メートルしか離れていない椿の葉にも一匹とまっていた。日差しを受けて翅脈を白く輝かせたトンボの羽は、まるで高級なシルクの糸で編まれたように美しい。暁彦は思わず手を伸ばし、触れる間際で指を止め、トンボのそばを通り抜けた。
 トンボの群れを、星羅に見せたかったな、と思う。まもなく五歳になる彼女はほんの数日前、保育園の帰り道に「とんぼのめがねはみずいろめがねー、あーおいおそらをとんだからー」と歌っていた。なので、実際のトンボの目の色を一緒に確認したかった。今頃は保育園での昼食が終わり、昼寝の支度をしている頃だろうか。たくさんの幼児がせっせとパジャマに着替えている姿を想像すれば頰がゆるむ。
 赤ん坊のころに比べ、立ち上がり、歩き、言葉を発するようになった星羅はずいぶん付き合いやすくなった。歌とブロック遊びが大好きで、他の子供と遊ぶより一人で延々とブロックの城を組み上げていたいタイプのマイペースな子供だ。三歳の誕生日前後からそうした性質が表に出てきたように思う。彼女は負けず嫌いだった自分とも優等生タイプだったという妻とも違う、一人の他者なのだとしみじみ感じられて、切なくも面白い。
 そう冷静に思えるまで、星羅との付き合いは困難の連続だった。なにしろ生後七ヶ月までほとんど育児をしていなかったのだ。咲喜が仕事へ重心を移し、残業や出張も引き受けるようになったことで、朝夕の送り迎え以外にも暁彦が星羅と二人きりで過ごす時間が増えた。泣くタイミングも、理由も、泣き止ませ方もわからない赤ん坊を一日中世話していると、時々、時限爆弾でも抱いているような悲壮な気分を搔きたてられた。
「おっぱいがほしい」
 寝ても覚めても星羅がどこかで泣いているような幻聴が聞こえ始めた頃、暁彦は夫婦で晩酌をしている最中にぽつりと言った。
「星羅はもうおっぱい飲んでないよ?」
「いや、食料的な意味でなく、ぬくもりとか柔らかみとか、そういう意味で」
「暁ちゃんの胸板も割とあったかいし柔らかいよ?」
「俺の座布団みたいな胸板でなく、もっとこう、質量のある柔らかみが求められている気がする」
「私、別に授乳してる時でも大した質量なかったけど」
 暁彦は思わず、ビールを傾ける咲喜の胸元を見てしまう。チェックのパジャマに包まれた胸部に、確かに目立った膨らみは見受けられない。そうだよな、そういう女の人だっているんだ。でも星羅は咲喜に抱かれると泣き止むことが多い。自分の抱っこと咲喜の抱っこの、一体なにが違うというのだろう。
「単純に世話してた時間の差だよ。暁ちゃんの声や匂いに慣れたら、もっと落ち着くって」
 そう言われては、身も蓋もない。
 仕立て直し屋に転職し、保育園の送迎と朝夕の食事作りを担う生活が始まって二ヶ月が過ぎた頃、限界が来た。好きなミシンにずっと触れていられるという点で仕事は楽しかったが、それでも新しい職場に慣れるまでは気が抜けなかった。縫製だけでなく客対応も行うため、予想外のトラブルに振り回される場面も多い。しかしどれだけ頭が仕事でぐちゃぐちゃになっていても、夕方の五時には急ぎ自転車を漕いで、保育園に迎えに行かなければならない。そこから買い出し、夕飯作り、食べさせて風呂に入れて寝かしつけ、と怒濤のタスクが続く。咲喜が早めに帰宅してくれると、寝かしつけなり風呂なりを交代してもらえてかなり気が楽になる。ようやく息がつけるのは寝かしつけを終えた二十三時。その後も二、三時間ごとに夜泣きが続く。そして、育児に休日はない。
 一つ言えることは、朝から機嫌が悪く、抱っこ続きだった赤ん坊に二時間泣かれて疲れ果てた日曜の午後に、「これまで育児してきた時間の差」だなんて正論を思い出しても、なんの役にも立たない、ということだ。オムツは替えたし、ミルクはたらふく飲ませたばかり、室温は暑くも寒くもない二十六度。熱もないし、肌がかぶれているわけでもない。ずっと抱っこをして、出来る限り優しく揺らしている。それでも星羅はうぎゃああ、うぎゃああ、と悲しげな声を上げている。
 もう自分に出来ることはすべてやった。万策尽きると、まるで抗議でもされているような気分になる。どうしてお前はママじゃないんだ、ママがいい、ママがいい、と。
 仕事を辞めたあと、自分が家事育児のメインプレイヤーになると伝えたところ、電話口の向こうで両親は絶句していた。咲喜さんと替わってくれ、と促されて受話器を渡したら「いえいえ! いえいえいえ、そんな」と咲喜がしきりに恐縮していたので、恐らく父親は彼女になんらかの謝罪をしたのだろう。元同僚や知人も、近況を伝えると戸惑いを見せた。「そんなのダメだろ」と頭から否定する人もいた。そんな数々の心もとない瞬間が急に頭を埋め、暁彦は天井を見上げた。
 自分たち家族にとって一番いい選択だと思っていた。でもやっぱり、間違っていたんだろうか。この瞬間に隣にいるのがママじゃないことで、おっぱいがないことで、俺は星羅を苦しめているのか?
 赤ん坊の泣き声は、甲高い。ずっと聞いていると、だんだん体に弱い電流でも流されているような不快感と不安が込み上げてくる。
「あー」
 ぐらり、と腹の底から強い衝動が湧いた。もう抱っこしているのが嫌だ、放り出してしまいたい――。苛立ちが膨らむと同時に、「そんなのダメだろ」と自分の判断を鼻で笑った元同僚の顔が思い出された。
『攻撃性が男の本能なんだから、子育てなんか出来るわけないって』
 無性に、ムカついた。
 泣いている星羅に対してではなく、ろくに育児をしたこともないだろう元同僚の馬鹿げた決めつけに。
 怒りで、かえって冷静になった。とりあえず泣いている星羅をカーペットに下ろす。周りに危険なものがないことを確認し、そっとその場を離れた。ぎゃあああ! と泣き声が一層高くなる。だけど今は我慢してもらう。
 泣き声から避難するようにトイレに入り、スマホを手にとった。「父親 赤ん坊 泣き止まない」「父親 出来る あやし方」など、思いつく単語を検索ボックスにいれても、「普段会わないパパへの人見知り」だの「パパが自信をなくさないようママが出来るフォロー」だのピンとこない情報しか表示されない。
 泣き声が続いている。焦りつつ検索を繰り返すうちに指がすべり、検索中の単語から「父親」が抜けてしまった。「赤ん坊 泣き止まない」とより大雑把な条件で検索され、表示された結果ページの中ほどに、気になるブログを見つけた。
 コウテイペンギンの子育て日記、というこの世に星の数ほどあるイラスト付きの育児ブログの一つだった。ヒットした記事タイトルは、「なにをやっても泣き止まない」。記事の冒頭には、もこもこしたグレーの子ペンギンが仰向けで泣きじゃくっている愛らしい雰囲気のイラストが添えられている。

【泣き止まない。
 なにをやっても泣き止まない。
 おなかはいっぱいだしオムツも替えた、げっぷも出たし汗もかいてない、気がつけばずーっと抱っこしてる。発熱もないし、かぶれもない。それなのにぐずぐず泣き止まない……分かります!
 今まさに生後七ヶ月の次男がそんな感じです!】

 思わず指が止まった。これだ。これをどうすればいいのか、知りたかった。次男、ということは、この人は既に上の子供がこの月齢を超えているのだ。きっと有効な対処法を知っているだろう。そう期待して、画面をスクロールする。

【泣きたいんですよ。しょうがないよ。ペンギンも疲れるとよく泣きたくなります。いっしょいっしょ。
 毎日ミシミシ成長してて体が痛いのかもしれないし、たまたま天井に映った影が怖かったのかもしれないし、お腹がぐるぐる鳴ったのがいやだったのかもしれない。
 こちらが考えられる限りの手を尽くしても、泣いてること、あります。なんらかの不安や不快感があるのかもしれない。でもそれは、少なくともその子を抱っこしてるあなたには伝わらないんだからしょうがない。すべての要求をエスパーみたいに理解して拾うのは無理です。
 なので、私は割と開き直ります。泣きたいなら泣きなさいよ、と失恋してくだを巻いてる友人を相手にしている気分でいきます】

 なんだか想像していた方向性と違う。
 というか、もしかして、育児をしているのが父親だからとか母親だからとかに関係なく、「手を尽くしても子供が泣き止まない」のはよくある現象なのだろうか。

【失恋して泣いてる友人に、なにをしますか。私は関係ない話をふったり、遊びに誘ったりします。その人が好きな芸能人の話とかね。ようするに、悲しいことから気を逸らすわけです!
 そういうわけで、エンドレス泣きの次男に試してなんとなく効果があったかな? ってこと、順番に書いてみます。

 その一、抱っこしたまま、好きな音楽を流してノリノリで歌う。
 親が楽しそうだと、『お、なになに?』って思うみたい。うちでは、B'zのライブDVDをつけてウルトラソゥ! ってシャウトしたら、いつのまにか泣き止んでました。

 その二、歯が生え始めの時期だと、もしかしたら歯ぐずりかも。歯固めも、赤ちゃんが持ちやすいやつ、冷蔵庫で冷やして嚙むと気持ちいいやつ、色んなタイプがあるので探してみてね。いくつか代表的なメーカーのがコチラ。

 その三、色の派手なぬいぐるみを、腕の陰なり物陰なりからひょこっと出して、また隠す。猫を猫じゃらしであやす感じで。割と興味を引っ張れる。

 その四、抱っこしたままスクワット。縦方向の運動が楽しいみたい。

 その五、うちはあまり効かなかったけど、参考までに、赤ん坊を泣き止ませるって評判の動画がコチラ】

 最後にペンギンさんは【それでもダメなら、その子がとにかく泣きたいんだよ。親は焦らずアイスでも食べて、ゆっくり泣かせてあげて】と結んでいた。
 歯ぐずり? もしかして、それだろうか。一週間ほど前、前歯が二本生えてきたばかりだ。確かに少し、歯茎に血がにじんでいた。歯が出てくる時の痛みなんて覚えていないけれど、不快なのかもしれない。
 急いでトイレを出て、星羅の元へ向かった。星羅は真っ赤な顔を涙で濡らして身を捩っていた。暁彦を探していたのだろう。初めの位置から寝返りをしてうつ伏せになっている。ごめんな、と謝りつつ抱き上げると、泣く勢いが心なしか弱まった。ウェットティッシュで涙を拭き、急いで彼女を抱っこ紐に入れて、ベビー用品が充実したドラッグストアへ向かった。


続きは5月10日(月)更新の予定です。


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。「花に眩む」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』を2012年に刊行。近著は『くちなし』『不在』『珠玉』『森があふれる』『さいはての家』『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』など。

彩瀬まる『不在』(角川文庫)大好評発売中!

「家族」「男女」――安心できるけれど窮屈な、名付けられた関係性の中で、人はどう生きるのか。家族をうしない、恋人をうしない、依るべきものをなくした世界で、人はどう生きるのか。
いま、最も注目されている作家・彩瀬まるが、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る、野心的長篇小説。

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