【連載】明日も一日きみを見てる 第6回 | 角田光代
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【連載】明日も一日きみを見てる 第6回 | 角田光代

「小説 野性時代」で連載中の大人気エッセイをnoteでも特別公開!
毎月22日(にゃんにゃんの日)に更新予定です。お楽しみに!

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角田家の庭で出くわした、とらちゃんとサバトラ猫。
これはけんかになる、と慌てて飛び出した角田さんでしたが、
そこから想像もしなかった大事件が起きて……。


第6回 鉢合わせと最大事件 (前編)

 私の人生においても、トトの猫生にとっても、最大となるだろう事件が起きたのは、引っ越してから一年と少し過ぎたころである。
 家の外でよく見かける猫の顔ぶれは、だいたい決まった。もっともよく見かけるのは茶トラのとらちゃん。まれに見かけるのはサバトラ。はっきりと姿を見たことはないが、ほんのときたま騒いでいる黒猫のくろちゃん。
 この猫たちは、近所をうろつく猫たちとしてたがいを認識しているのかいないのか、私にはわからない。いっしょにいるところを見たことがないのだ。

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 ある朝、起きてリビングのカーテンを開けると、とらちゃんがいる。あ、とらちゃん、いるね、と思いながらトトの朝食の用意をはじめた。トトも起きてきて、窓越しにとらちゃんを見ている。しずかな朝である。トトの朝ごはんを用意し終えて、自分の朝ごはんに取りかかったところ、庭からしずけさを引き裂くような猫の鳴き声が聞こえてきた。驚いて窓に近寄ると、とらちゃんとサバトラが出くわした様子。二メートルほど離れた場所でにらみ合い、ウニャアアアアアアアとどちらかが金切り声を上げている。
 まずい、これはけんかになる、仲裁しないと。とっさに思った私は、とりあえず二匹を引き離すため庭に飛び出した。まずサバトラが駆け出し、とらちゃんがそれを追いかけ、裏庭にまわる。私も彼らを追いかけて裏庭にまわる。ものすごいスピードで庭から出ていく、サバトラ、茶トラ、灰色。
 えっ? 灰色? 彼らを追って私も庭の外の路地に出たが、もう猫たちの姿は見えない。
 えっ? 私は今目に映ったシーンを脳内でスロー再生する。線のごとく走っていく、サバトラ模様、茶トラ模様、灰色模様……。灰色模様……。灰色……トトか?

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 頭のなかがまっしろになる。私が庭に飛び出したのは一瞬のことで、そのときトトはリビングにいた。ドアが開き、閉まる一瞬で、トトが玄関までダッシュして、私のわきをすり抜けたのか? いや、あのトトにそんな鋭敏なダッシュができるはずがない。そしてトトが玄関のドアを自分から出ていくはずがない。
 早朝の路地に呆然と立っていた私は、灰色のものは見間違いだった、と自分に言い聞かせてとりあえず家に戻った。
 家のなかはしんとしている。いつものことだ、トトがいたってしんとしずまりかえっている。
 しかしながら認めないわけにはいかなかった。そのしずけさがいつもの朝とは不気味に違うことを。音をたてない猫が寝ているしずけさと、私以外の生きものが家にいないしずけさは、こんなにも違うものなのかと私はそのとき思い知った。気配がない。時間も空気も止まったかのようだ。
 やっぱり、サバトラ茶トラに続く灰色は、トトだったんだ。そう思ったら手が震え出した。トトが、西原理恵子さんのおうちから我が家にきて以来十年間、ただの一度も、自分の足で外に出たことのないあのトトが、家以外の場所に出ていった。そんなことがあるなんて!
 バターを塗りかけのトーストをそのままに、私は家を出て、「トト、トトー」と震える声で呼びながら路地を歩いた。
 トトはこの十年、アスファルトも土の上も歩いたことがないし、車も自転車も間近には見たことがない。カラスも雀も窓越しにしか見たことがない。間近で見たことがないもの、触れたことも嗅いだこともないものばかりがあふれた外の世界の、いったいどこにいるのか。
 近所には、庭が森と化したようなおうちがあるのだが、その森のぎりぎりまで近づいて、トトの名を呼ぶ。他家のおうちの周辺をうろついて、トトの名を呼ぶ。路地を二往復、三往復してもトトの姿はない。泣き出したいのに、おそろしすぎて涙も出ない。
 さまざまなことが脳裏をよぎる。今まで見たことのある迷い猫のポスター。トト女の子十歳。首輪をしていません。じっとりと目を細めています。文面が勝手に浮かぶ。いや、そんなことよりまず警察と保健所に電話だっけ。帰ったら、猫がいなくなったときにすべきことを調べなくては……。

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 数か月前に、とある仕事でトトの撮影にきてくれたカメラマンさんも猫を飼っていて、猫探偵の話をしてくれたことを思い出す。彼女の猫があるときいなくなり、猫探偵を雇って、奇跡のように猫を見つけた話をしてくれたのだ。あの猫探偵の話は、今日という日の予兆だったのかもしれない。いざというときは猫探偵だ。
 それにしても、猫のけんかを耳にしたトトは、「こいつはいちだいじだぜ!」とでも思ったのだろうか。「わたしがなんとかしなくちゃいけないぜ!」とでも思ったのだろうか。なんともできるはずがないのに……。あんな大きな猫たちのけんかを、トトがとめられるはずがないのに……。それとも聞いたことのない猫のけんかの声で、トトのなかの猫性があのようにトトを機敏にさせたのだろうか。今ごろ路上でふっと我に返って、追いかけていたはずの茶トラもサバトラもいなくて、自分がどこにいるかわからなくて、パニックになっているのではないか。

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 さて、このときも、家の人は仕事場に缶詰になっていた。舞台や映画の音楽制作をするのが仕事の家の人は、制作が佳境に入ると仕事場にこもり、何週間も、長いときには二、三か月も家に帰ってこないのである。私は震えながら家に帰り、トトがものすごい速さで出ていってしまったと家の人にメールをした。えっ、本当に? 逃げちゃったの? と即座にメールが返ってきた。共同住宅で暮らしていたころ、玄関のドアを開けても、そこに結界が張られているかのようにぜったいに一歩も出なかったトトが、玄関の外に出ていったことが、やはり家の人にも信じがたいのだろう。
 震えは止まらず、動悸は激しくなり、泣きたい気持ちのまま、そうなんだよう、とメールの返信をした。

                               つづく

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次回の更新は10月22日(金)の予定です。

角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、21年『源氏物語』の訳業で読売文学賞など受賞。


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